20205月4日礼拝説教         

 

「パウロの弁

横山 武師

使徒の働き25章612

 フェストは、彼らのところに八日あるいは十日ばかり滞在しただけで、カイザリヤへ下って行き、翌日、裁判の席に着いて、パウロの出廷を命じた。パウロが出て来ると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちは、彼を取り囲んで立ち、多くの重い罪状を申し立てたが、それを証拠立てることはできなかった。しかしパウロは弁明して、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、何の罪も犯してはおりません」と言った。ところが、ユダヤ人の歓心を買おうとしたフェストは、パウロに向かって、「あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを願うか」と尋ねた。すると、パウロはこう言った。「私はカイザルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。あなたもよくご存じのとおり、私はユダヤ人にどんな悪いこともしませんでした。もし私が悪いことをして、死罪に当たることをしたのでしたら、私は死をのがれようとはしません。しかし、この人たちが私を訴えていることに一つも根拠がないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカイザルに上訴します。」そのとき、フェストは陪席の者たちと協議したうえで、こう答えた。「あなたはカイザルに上訴したのだから、カイザルのもとへ行きなさい。」

 

 皆さんおはようございます今朝は、使徒の働き25章の6節から12節までのところを中心に見ていきたいと思いま

 ここます分かりますようにこはことついて弁明をしている部分でありますそれは8節から始りますユダヤ人たちがあることないこと実際はいこ捏造(ねつぞう)だったわけで立てたけれども証拠立てられなかったそしてそれ対して8「しかしパウロは弁と記されてありパウロはこう発言してます「ユダヤ人の律法に対しも、宮に対しても、またカイザルに対しても何の罪も犯してはおりませはっきりある意味で結論とも言べき大切な事柄につい明確に言明しているわけであります「ユダヤ人に対してというのそので行たちは政治的な支配権ローマにあったわけですが宗教的な事柄について広大な征服されたローマの領域の中でその民族が古来持っていを、よほどのことローマの総合統治に逆流するこでないかぎりそのまま許しある意味では寛容な宗教政を被征服地で行っていたわけですこれは聖書のユダヤ教の信仰などとは違ってローマ人の信仰そのもの言ってみれば多神教的なものでって唯一の全知全能のが主権者としておらの守ていくだの宗姿うもずれにしても当時のローマの支配支配地における支された人たち信仰の在り方というものをローマの全体的な統政治的な流れ反逆し逆らうようなものでけれそのまま黙認したいう状況でありました。

 旧約てき対する福音のいのッセージは、イエ·リストにらに受した分かりすいもとして歴史に生き受け止められるべき提示そういう新約時代福音の在り方についパウロたちは目を開かれて主張したわけですパウロ自身も誰よりも強固ユダヤ教徒の指導者の一人だったわけですがしかし彼は真の福音者といの器として用いられ生まれ変わって活動し始るわけですねしかし最初そういうパウロの真意というものを人々は理解することはなかなかできなかったパウロ自身も最初はそうだったのですが明らかに聖書の啓示を得そのことを理解し実にアダム以来旧約聖書の真理のこそがあのイエス·リスにおける福なのだいう正い理解を主張すべ立ち上がっているわけでありますけれどもかつてこの福音を民族的に委ねられたユダヤ人たち特にその指導的人たちはもう既得権があっの既得権に世俗的まっ俗のてしまいそれこそ正しいと受け止めてしまってい古いユダヤ人の律法主義には理解できないことだったのす。

 9節を見ますとそういう方向性の中フェスつまりローマ(ユダヤ人たちの偏った価値観が横行している場所でなく もっと公平なローマの正義にも通じところでのきちんとし正邪明白な立場を求めたわけですカイザルのそういう普遍的な軸というものに基づい本来ならば当然神様ユダヤ人の律法学者たちに対して宮の祭司たち心軸し歴れる様のおられたわけです。

 ちょっと飛躍して翻って考えるならば 時を超えて現代のクリスチャンたちは 今そういう正しい神様前における生き方の有り様を神様に対すイエス様によって証(あか)しされ、より具体的事実に基づいてそれらを価値観の軸とし人生観の軸として歩んで行くようにと期待されている軸である見本であそういう者とし神様はクリスチャンたちを選ばれたですからそういうクリスチャンたちこの世に証しするのでなくこの世によいう体(、世俗的な色に染まってしまということ)、まことにおかしな現象であるわけです本当の意味でこの聖書の真理神の教えに従うことこそがヨハネが言っているよう真の自由であるわけです現代人にとって何よりも大切なものであ要素とし 「自由というのはよく係がいうことをすでにヨハネはその福音書中で言ってますそのことは直接間接にいろいろ新約聖書の中にも展開されていまいずれしてもこの時代においてパウロ古いユダヤのそのの中立っている人そしてまたカイザルローマの支配こそ本当だと思っていいろいろなもの「軸だと思ってい人々に対してそれらのすての根源にあ人が人として神造られた者とて生き本当の心軸は、のナザレのイエス·キリスにある、いうことを示そうとしていたわけす。そしてそれこそが本来の正義(ローマの正義本来そういうもういうものをパウロはここで主張しているわけですですからこのパウロの弁明というの宗教的な弁明であると同時に当時の誤ったユダヤ教信仰に凝り固まっている人に対しても、あるマのだとに対しても、「いいえ、ナザレのイエスこそが本当の意味で、昔も今も、そしてこれから、永遠に基本的な揺るがすことのできな中心線なです」ということを主張しているわけです。です明はっていたこう明ではありますが現代の誤った文明観迷ってそれこが本の意味の価値観であるかのごとくにこに今で)、そういうものに惑わされず永遠に変わらない天地創以来変わらないこの聖書そしてそれに見て否ど明確に現されたイエスその生涯の証しとして私たちは理解し受け止ましょうそして私たち自身の価値観そこを軸として形成しその生き方をむしろ世の中現して一人一人の置かれた場での在り方を通して実現しいくことです最近あるが書かれ『置かれた場所で咲きなさという置かれ場所でを結労することの大切さ説いた良い本がありますがれも同じようなことまさにそれは聖が昔も今もそしてこれからも伝え聖書従って生きようとするが忘れてはならない大切立つべき立場であることを、改めて理解していきたいものだ思います。では、お祈りいたしましょ

 「恵み深い天の神様今日もこのよう御前(みまえ)に出てあなたの御言葉(みことば)を共々に考えあなたの天からの導きに従いつつその真理をもう一度理共にその真理の素晴らしさを味わわせて頂いておりますことを感いたしますどうか今週またこの地で私たちがこのようにして生きること許されている間にあなたの福音を委ねられた者としてパウロがそうであったよう他の主の弟子たちがそうであったよう私たちも置かれた場所でどうか誠実天から与えてくださあなたの聖霊の御力(みちから)に頼っ一歩一歩踏み歩んで進んでいくことができるように導いてください集うておられるお一人お一人の上にまたいろいろな事情でこの場に今日は今はお集いになることができなかっ方々も今置かれた場所あなたが臨んでくださいましてそれらの方々にも同じよ励ましを与えてくださいますようお願いいたしますどうか同じように礼拝をもってい日本中の世界たあ(みな)特にる方々を殊のほかあなた恵みで包みお守り導きくださいますよに願いつつ尊い救い主イエス様のお名前を通してお祈いたしますアーメン


2020517日 礼拝説教

「試練に耐える」 

第Ⅰコリント10:13

 

説教者:藤原導夫  

 

 普段とは異なった、このような形ではありますが、皆様と共に礼拝の時を持つことができますことを心から感謝しています。新型コロナウイルス感染症の脅威はいつ終わりになるのでしょうか? それは、ちょうどトンネルの中を通っているように私は感じています。

 日本には実に多くの、様々なトンネルがあります。皆さんもよく経験しておられるところではないでしょうか?

トンネルにも数十メートル、数百メートルの短いものもあります。車を運転しているとあっという間に過ぎてしまいます。

しかし数キロメートル、時には十数キロメートルにわたる、とても長いトンネルもあります。そのようなトンネルは、先がなかなか見えません。果たしてこのトンネルは出口があるのだろうか、と思って不安になるようなこともあります。

 しかし忍耐してじっと走り続ければ必ず出口にやって来ることが出来るのです。出口から光が差し込んできて、ほっとさせられます。

 皆さんにもそのような経験がおありではないでしょうか?

 私は今回の新型コロナウイルスの問題は、この長いトンネルを抜けるようだと思っています。出口がなかなか見えないで、不安が続きますが、忍耐して待っていれば必ず出口に到着するであろうと信じています。

 

【誰にでも襲いかかる試練】

 

 今日の御言葉も私たちにそのことを教えてくれているように思います。パウロはコリント教会の信徒の人々に対して、このように語りかけています。

 「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません」(第1コリント10:13A)。

 私たちは自分が一番不幸であると思ったり、自分の今の苦しみを誰も分かってくれないと思って落ち込むようなことはないでしょうか。しばしば私たちは苦しみの中で、「どうして、自分だけがこのように苦しむのか」と思いがちです。しかし、それを諭すようにパウロは、「そのような苦しみは、あなた一人だけではないのですよ」と語りかけてくれています。

 

 しばらく前のことですが、私たちの教会に通って来ておられる一人のご婦人が足を骨折し、入院されました。その方が退院後にこのようなことを語っておられたのです。「私は自分が一番重傷で不幸だと思っていました。でも私より大変な患者さんが多くおられるのを知り、自分の不幸を嘆くことはやめました」と。

 そうです。私たちの苦しみは、大なり小なり同じように体験している人々がいるのです。

 

 聖書は、私たちが自分が味わっている苦しみを見つめて落ち込むのではなく、視野を広げ、多くの人も同じような苦しみを味わっていることを覚え、さらに目をもっと上げ、神ご自身を覚えるようにと語りかけています。

 

【神は真実を尽くしてくださり、私たちを試練から救い出してくださる!】

 

 パウロの言葉の続きに注目したいと思います。

 「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(第1コリント10:13B)。

 

 試練があまりにもひどいものであるならば、私たちは倒れてしまい、二度と立ち上がれなくなるかもしれません。しかし、そうならないように、神は配慮してくださる。なぜなら、神は私たちにその真実を尽くしてくださるからです。御子(みこ)イエスを十字架にかけるほどに私たちを愛してくださり、その真実を尽くしてくださる。

 何とありがたいことでしょう!

 それのみならず、そこからの脱出の道をも開き、試練の中にも希望を失うことのないようにと私たちを助けてくださるのです。神は私たちを最後まで守り抜いてくださる!

 何とありがたいことでしょう!

 

 私はこの御言葉(みことば)を読みますと、あの旧約聖書、創世記に出てくるヨセフを思い起こします。ヨセフはヤコブの息子でしたが、兄弟たちにねたまれて、エジプトへと売り飛ばされてしまいました。そして、エジプトでの奴隷生活が始まります。

 ヨセフはそこで様々な試練に遭遇することになります。けれどもそれらをじっと耐えて、神様に従い続けたのです。

 聖書には、神はそのような「ヨセフと共におられた」と記されています。

 やがてエジプトは大変な飢饉に襲われますが、ヨセフが神から与えられた知恵によって、それを切り抜けることができたのでした。そして、カナンの地で飢饉に苦しんでいたヨセフの父ヤコブや兄弟たちはエジプトへと下り、飢饉の苦しみから助け出されたのでした。そしてヨセフと兄弟たちは和解することもできたのです。

 ヨセフにとっては長い試練の連続であったと思いますが、神はヨセフをその試練から救い出し、その試練に対する意味を与えてくださり、その人生を全うさせてくださったのです。

 

 それはこのパウロの言葉のとおりであり、また私たちの人生とその試練に当てはめても同じではないでしょうか。

 トンネルにも短いトンネル、少し長いトンネル、とても長いトンネルがあるように、私たちが味わう試練にも、あっという間に過ぎ去る短い試練、しばらく続く試練、いつ終わるか分からないような忍耐を要する試練もあるのではないでしょうか。

 この新型コロナウイルスという試練はどうであるのか私には分かりません。

 しかし、神様のご真実に私たちが頼って行くならば、神様は必ずや私たちを試練の中から助け出してくださいます。

 そのことを今日の御言葉に教えられ、信じて歩んで行こうではありませんか。

 

 最後にもう一度、聖書の言葉をお読みします。

 

 「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(第1コリント10:13)。


2020年5月10日 礼拝説教

「神の計画」

西﨑泰生

 

皆さん。おはようございます。今日は、母の日ですね。新型コロナウイルスの感染の対応で、通常の季節行事を忘れてしまいます。医療従事者の方々の中には、お母さんがたくさんいることでしょう。母の日を祝うことなく、もしかしたら、家にも帰れず奮闘していらっしゃるかもしれません。誰でも願うことは一緒かもしれません。早くこの危機が去り、家族が一緒に笑い合う生活が戻ることを。

さて、人は大きな脅威や大きな壁の前で、迷います。自分がいかに無力かを思い知らされる時もあると思います。クリスチャンでも例外ではありません。「自分の弱さを知る」ことは良いことかもしれませんが、時に神様を疑い、不信仰に陥ることもあるのではないでしょうか。旧約聖書を読んでみますと、イスラエルの民は、強靭(きょうじん)な敵の前で、あるいは重大な局面で、神様を疑い、背を向けた行動を繰り返していたことが分かります。しかし、神様は徹頭徹尾、私たちを愛し、悔い改めて神様に立ち返ることを望んでいます。

今日は、特に、「神様はどんな方であるか。」そして、「人知を超えた神様のご計画とは何か。」をペテロの手紙第一から学んでいきたいと思います。

 

ペテロの手紙第一の117節から25節を一緒にお読みいたしましょう。

 17 また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。

 18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖(あがな)い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、

 19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

 20 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。

 21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

 22 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。

 23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

 24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

 25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣(の)べ伝えられた福音のことばがこれです。

 

ペテロはこの箇所で初めに、父なる神様は、どんな方であるかを述べています。「神様はそれぞれのわざに従って公平に裁かれる方」であるということです。

「裁かれる」ということを聞いた時に、信仰的に凡人である私は、「大変だ。神様って恐ろしいのだな。」と、身震いしました。一方では、「公平である」ということは何とすばらしい素晴らしいことかを考えます。前にヤコブの手紙の学びをしました。2章の1節に「人をえこひいきしてはいけません。」とヤコブは忠告しています。立派な服装をした人は、「良い席」に案内し、貧しい人には「立っていなさい。」または「私の足元にすわりなさい。」と身なりや外見で人を差別する姿に忠告を与えたのです。

「公平」と「えこひいき」は対極な言葉です。神様は、私たちをそのように見ません。神様は人を外見では判断しません。心を見るのです。

社会では、「誰からも好かれる良い性格」」「常に他人のために努力して人」いわゆる「良い人」が栄誉を得ます。また、厳しい社会を乗り切るためには、弱い心より強い心が望まれるかもしれません。しかし、私たちがどんな性格であったとしても、そのような基準で神様は私たちを選んだのではありません。「自分の罪を認め、神様の前で悔い改める」その基準しかありません。その意味では、神様は「公平」なのです。

ペテロは、ここでもう一度、そのように神様の愛によって救われたクリスチャン(信仰者)に「恐れかしこんで過ごしなさい。」と勧めています。

「恐れかしこむ」とはどんなことでしょう。別の言葉で言い表すなら、「神様をないがしろにしない。軽々しく扱わない。」であり、「したいことをする駄々っ子のような振る舞いをしない。」ということです。自分のしたいようにするのではなく、神様を第一にする態度であるということです。

ペテロは第二に「神様は私たちを罪から贖ってくださった方」であると述べています。

「贖い出される」という言葉は現代社会では、あまり使わないと思います。本来は、「奴隷を金銀で買い取る。」という意味です。また、旧約聖書を見ますと、イスラエルの民の罪を「生贄(いけにえ)」つまり「動物の血をもって赦(ゆる)してもらう。」ことが書かれています。モーセがエジプトからイスラエルの民を連れ出して旅を続ける間、幕屋を建て、祭壇を築き、祭司が民を代表して「生贄」をささげたことが分かります。レビ記にはその手順が細かく規定されています。幕屋のサイズから作り方、幕屋に置く器具の一つ一つが細かく規定されています。神様の示す方法を忠実に行うことによって、「神を恐れかしこむ」ことを民は学んでいったのです。

ペテロは、私たちが「罪の奴隷」から贖い出されたのは、動物の血ではなく、「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」と19節で述べています。

旧約聖書の様々な儀式は、「キリストの型=モデル」です。祭司であるキリストが自らの血をもって私たちの罪の贖いをしてくださったのです。

ペテロは第三に「神様は、キリストの犠牲を初めから計画されていた。」と20節で明確に述べています。

エペソ人への手紙15節、6節でもパウロが書き記しています。

5節 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによって自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

6節 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

ですから、神様を信じる者は、むなしい生き方ではなく、「神を恐れかしこむ」生き方に私たちは変えられたのです。

 最後にペテロは、私たちに「互いに心から熱く愛し合いなさい。」と勧めています。ギリシャ語の文法には、命令法と直接法があると本に書かれていました。命令法は、命令を示し、直接法は事実を表します。

22節に「このようにせよ。」と、私たちのすべきことが述べられていますが、その前提には「神様がこのようにしてくださった。」という事実があるのです。

直接法では、「あなたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」と記され、だから、命令法で「互いに心から愛し合いなさい。」と表したのです。

さらに、23節では、「私たちが罪から贖い出され、新しく生まれたのは、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによる。」と示されています。「恐れかしこむ」生き方も「互いに心から愛し合う」生き方も、自分の力ではなく、神様が共にいてくださるということ、変わることのない神の言葉が支えてあることを私たちは理解しましょう。

「ライオンが我が子を鍛えるために千尋の谷に落とす」という言葉があります。神様にはそのように厳しい面があります。罪や不信仰は絶対に認めることはできないのです。しかし、同時に「千尋の谷」に自ら飛び込み私たちを救い出してくださるお方でもあります。

神様の恵みに感謝し、一日一日を生ける希望で満たしてくださる方に信頼していきましょう。

締めくくりに次の励ましの文章を贈ります。

「神のご計画の全体像を理解することは、健全なクリスチャン生活を送るための必須条件である。どのような試練の中にあっても、神様の計画は確実に前進しつつある。ハレルヤ!」 (「Clay 20205月号より」 中川健一師)

「新しい目的、新しい方向性を、神に示していただきましょう。あなたはまだ道の半ばにいるのです。挫折したからといって、どうということはありません。神があなたを救い出し、新しい出発を与えてくださいます。一度失敗したからといって―たとえ百回失敗したとしても―あなたが役立たずになってしまうわけではないのです。」

(「人生の難題はこうして乗り越えよう~マイナスをプラスに変える12の処方箋」リック・ウオレン著朝の祈祷会で学んでいるテキスト)

 祈ります。

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」

 私たちは自分の見方や考え方で神様を既定してしまい、あなたが全能であり、全知であることを忘れてしまいます。あなたは公平に裁かれる方であるという言葉を聞くと、その恐ろしさで身をすくませてしまいます。その時に、何のとりえもないような私のために独り子であるキリストが十字架にかかり、尊い血を流された事実を心にしっかり受け止めることができますように導いてください。私たちの生活の基盤にあなたの言葉を据え、主のすばらしさを賛美し、喜んであなたに仕え、人に仕える者としてください。

兄弟姉妹方の生活の上に、あなたの豊かな恵みを注いでくださいますように願います。 

 救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。 アーメン


202053 礼拝説教

 

 「さばいてはいけません」

冨岡 昇

マタイの福音書 7章1~5節

7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおり

に、あなたがたも量られるからです。

7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には

気がつかないのですか。
7:4
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うの

ですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
7:5
偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、

兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

 

序論

  おはようございます。コロナウイルス感染拡大を防ぐために、教会に集まることができない状況が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。教会堂でご一緒に礼拝を持つことはできませんが、各家庭で同じ時に同じプログラムにしたがって礼拝を持つことができることは感謝です。

さて、今日の個所は、イエス様が山の上で語られたメッセージ、いわゆる「山上の説教」の中の一つです。山上の説教では、イエス様を信じた人々が、それまでの古い生き方とは違って、どのように歩んでいくことを神様は望んでおられるか、その新しい歩みの指針を教えておられます。例えば、マタイの619から24節では、「天に宝を積む歩み」について、625から34節では「思い煩いから解放される歩み」について触れています。この二つの事柄は、どちらかと言うと信仰者の内面に関わるものです。

続いてイエス様は、もう一つの重要なテーマについて語ります。イエス様は、教会という一つの神の家族の中でどのように兄弟姉妹方と交わっていくのか、という問題について触れられます。会社においても、また、学校、部活動、趣味のサークルにおいても、一つの目的のもとに集まった共同体の中では、内部の人を批判しやすいものです。残念ながら、教会も例外ではありません。

今日は、イエス様が命じられた「さばいてはならない」についてご一緒に見ていきたいと思います。

 

【1】行うべきさばき(肯定的な意味)

「さばいてはいけません」、聖書の中でこの言葉ほど誤解を招きやすい言葉はありません。教会の中で、しばしば間違った用い方がされることがあります。

「さばく」という言葉には、「価値判断を下す」、「評価する」といった肯定的な意味があります。裁判官のように、「事の善悪を判断する」という意味で使われています。また、文学や音楽などの芸術作品の価値を判断するという意味でも使われています。イエス様はこのような意味でのさばきを否定しているのではありません。むしろ、私たちは肯定的な意味のさばきは大切にしなければなりません。

教会の中で誰かに意見を言うと、「それは、あなたはさばいているのですよ」ということを聞くことがあります。これは誤解です。「さばいてはいけません」ということは、私たちが一切の判断力を放棄することでは決してありません。神様は私たちに物事を判断する力を与えておられるのです。

聖書ではそのようなさばきを行うようにと言っています。例えば、マタイの181517節にはこのように書かれています。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりを一緒に連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでも、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」ここには、兄弟の罪を責めるようにと、その手順のようなものが細かく述べられています。このみ言葉から、「人に対して一切の価値判断をしてはいけない」ということがいかに間違いであるかを知ることができます。兄弟が罪を犯したとき、その罪について、何かそれにしっかりと対峙(たいじ)している人が悪い人で、それを敢()えて言わない人が、人をさばかない正しい人のように見えることがあります。しかし、真実はその逆です。罪や偽りをいい加減にしていますと、教会内の秩序は保てなくなります。

 

【2】避けるべきさばき(否定的な意味)

さばきの肯定的な面を見てきましたが、この言葉には、「見下げる」、「批判する」、「非難する」、「中傷する」といった否定的な意味もあります。イエス様は仲間のクリスチャンに対して「このようなことをしてはいけません」と言われたのです。

神様を信じた私たちが自分一人だけで生きていく、つまり一匹狼(おおかみ)として生きていくということは聖書的ではありません。現代は、教会に行かなくともインターネットで礼拝のメッセージを聞くことができます。だからといって教会に集まらなくてもよいということではありません。私たちは神の家族の一人として教会を形成しているのです。教会はキリストの体であって、皆さんは、ある人は手であり、ある人は足であり、またある人は目です。一人一人が一つの体の器官なのです。そして、お互いにいたわり合うようにと勧められています。教会の中で、互いに理解し合い、受け入れ合い、同情し合い、慰め合い、愛し合い、赦(ゆる)し合い、痛みを分かち合い、助け合っていくことが、神様が私たちに期待していることです。

ところが、クリスチャンであってもこの地上で生きている間は、私たちは皆、不完全なのです。私たちが罪のない完全な者とされるのは天国においてです。私たちは誰一人として完成された人はいません。言わば、“工事中”なのです。工事現場で、ヘルメットをかぶって「ただいま工事中、ご迷惑をおかけします」と頭を深々と下げている人が描かれている看板をよく見かけます。あの看板こそ、私たちクリスチャン一人一人が自分の前に掲げなければならないものです。

人間は皆、罪の性質を持っていますので、他の人をありのままに受け入れるということは容易なことではなりません。誰でも、他人の欠点を探し、けちをつけ、優越感に浸り、相手が不幸になることさえ望んでしまう、恐ろしい邪悪な心を持っています。相手より一段高い所に立って、上から目線で他人をさばきたいのです。自分の中にある大きな大きな欠点にはなかなか気づかないのですけれども、他人の中にある小さな小さなちりのような欠点には敏感で、気になって気になって仕方がないのです。残念ながら、クリスチャンといえども、この傾向を持っているのです。教会の中で、あたかも警察官が犯罪者を目を凝らして見つけるように、兄弟姉妹の欠点を見つけ、厳しい態度に出てしまうことがあるのです。ですから、イエス様は「さばいてはいけません」と厳しく警告しているのです。

前にも言いましたように、人をさばかないということは、人に対して一切の価値判断をしてはいけないということではありません。悪いことは悪いと断じることは許されているばかりか、求められています。問題なのは、自分のことを棚に上げて、他人の欠点・落ち度ばかりに関心を集中させ、それを批判することです。これは厳に慎まなければなりません。

なぜさばいてはならないのか、その理由が2節に書かれています。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」他人に向けた厳しい物差しで、あなた自身がさばかれるからです。

 

【3】まず自分の目から梁を取り除く

 それでは、私たちが否定的ではなく、肯定的な意味でのさばきを行っていくためにはどうしたらよいのでしょうか。

1.梁に気づくこと

 それにはまず、自分の目の中に梁があることに気づくことです。イエス様は、3節と4節で「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」と言われました。他人のちりはよく見えますが、自分の梁にはなかなか気づかない、これが人間の悲しい姿です。「ちり」は、目の中に入るほどの小さなものです。一方、「梁」は床や屋根に使う板のことで、ちりに比べたらはるかに大きなものです。他人の目の中にあるちりには普通、なかなか気づきません。それを見つけることができるのは、その人をじ~っと注意深く観察しているからです。それに比べて、自分の中にある梁にはなかなか気づかないのです。たとえ気づいたとしても、それを認めたがらない、それに目をつぶってしまうのです。

イエス様は、私たちに向かって「気づかないのですか」と問うておられます。神の前に“梁を持った罪人”であるとの深い自覚を持つことが正しいさばきをする第一歩です。

2.梁を取り除くこと

次にイエス様は5節で、「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」と言われました。自分の梁に気づいたら、それをそのままイエス様のもとに持って行って取り扱っていただくことです。イエス様はご自分のところに来られる人を決して拒むことをせず、ありのままを受け止め、全ての失敗や罪を赦してくださいます。

私はときどき、自分の言動を振り返るとき、自分の犯した失敗や罪が走馬灯のように蘇(よみがえ)ってきて、己の罪深さに圧倒されそうになることがあります。そのとき、イエス様のところにそのままで行くと、「ああ、イエス様はこんな罪人の私のために十字架にかかってくださったのだ」と、イエス様の深い深い愛、無条件で赦してくださる愛に改めて気づかされるのです。

神の前に梁を持つ罪人であるとの自覚と、それを赦す神の愛とに立つとき初めて、慈しみとあわれみをもって、兄弟の目の中のちりを取り除くことができるのです。

 

 

お祈りします。


2020年4月26() 礼拝説教 

「神の計画と人の計略」

牧師  横山 武

 

使徒の働き25章1~5節

 「フェストは州総督として着任すると、三日後にカイザリヤからエルサレムに上った。すると、祭司長たちとユダヤ人のおもだった者たちが、パウロのことを訴え出て、パウロを取り調べる件について自分たちに好意を持ってくれるように頼み、パウロをエルサレムに呼び寄せていただきたいと彼に懇願した。彼らはパウロを途中で殺害するために待ち伏せをさせていた。ところが、フェストは、パウロはカイザリヤに拘置されているし、自分はまもなく出発の予定であると答え、『だから、その男に何か不都合なことがあるなら、あなたがたのうちの有力な人たちが、私といっしょに下って行って、彼を告訴しなさい。』と言った。」  

 

皆さんおはようございます。今日は、使徒の働き25章の1~5節をご一緒に考えていきたいと思います。

 この箇所はパウロの最初の伝道の働きについて書かれています。1節にある「フェスト」というのは、今度新しく州総督として着任した人物です。その当時イエス様の住んでいらっしゃるパレスチナの地方というのは、ローマ全体を統治していたローマ帝国の支配下にありました。そしてその中でエルサレムを中心としたユダヤの地方、ガリラヤの地方などは、基本的にはローマの指名した支配者である総督によって、そして部分的にはヘロデのような、前からその土地を支配していた領主的な勢力によって、いろいろと支配形態というものが絡み合って治められていたという面があったわけです。

 今日ご一緒に考える1~5節は、ここだけを見ますと、前後関係が浮かばないと様子が分からない、と感じる方もおられるかもしれません。けれども事実は決して難しくありません。イエス様は十字架にかかられて私たちの罪を神様の前にあがなうために、つまり「ごめんなさい」をしてくださるために、身代わりに亡くなられました。そして神様は、そのようなイエス様のことを自分の罪の身代わりのためだったと信ずる人は誰でも、その信仰のゆえに罪が赦(ゆる)される、ということを私たちに教えているわけです。まさにそのためにイエス様は身代わりとして亡くなられたわけであります。イエス様が十字架について死なれたということの根本的な真理はそこにあったわけです。そのことを、ぺテロやヨハネをはじめ、その当時の十二弟子を中心とした弟子たちは、当時の人々にイエス様の福音として伝えたわけであります。このパウロという人は、最初はイエス様の福音に反対していた人であったわけです。そしてむしろイエス様の福音を信ずる最初のクリスチャンたちを「神の民であるユダヤ人たちに神様の啓示として教えられた真理に背く者である」というふうに考えて、その在り方を否定するために当時のクリスチャン「ナザレのイエスの弟子」と呼ばれた人たちを捕らえて、そして裁判にかけて亡き者にするために一生懸命腐心して、東奔西走していた人の一人であったわけです。9章の辺りで、これを書いたパウロ自身が、自分はどのようにして、誤った「選民」であるユダヤ人の在り方から、特別に示されて「イエス様の福音こそ、伝え、教え、広めさせようとしていた真理であった」ということを知ったかを私たちに教えているわけですね。そのような「使徒の働き」の性格をわきまえた上で、特にこの終わりのほうに近い25章に目を留めますと、これはイエス様の福音がその当時の、政治的にはローマの支配下にあった、地中海沿岸を中心とした世界で伝えられていったということの意味を伝えている、とても大切な不可欠の文書であり神様の教えであるということが言えるわけであります。今日のところはそのような、使徒のー働きのいろいろな進展というものを記した25章であります。

 3節をまず見ますと「パウロを取り調べる件について、自分たちに好意を持ってくれるように頼み、エルサレムに呼び寄せていただきたいと彼に懇願した。彼らはパウロを途中で殺害するために待ち伏せをさせていた。」という物騒な文言が出てきます。これには背景があったわけです。ユダヤ人たちの文化的な中心はダビデ、ソロモンの時代以来エルサレムなんです。けれどもローマの支配が彼らをも呑()み込んで、地中海全体を支配するに及んで、おのずからユダヤ地方の便利な場所としては、海岸の町であり貿易、交流の面からも便利なロケーションにあった港町カイザリヤというのが、やはりまた大きな存在として当時のユダヤ地方の社会に理解されていたわけですね。ですから、エルサレムと同時にカイザリヤという町もたびたび出てくるわけであります。この1節~5節は、そのような背景を下地として考えると非常に分かりやすいわけであります。

2節を見てみますと、「祭司長たち」それから「ユダヤ人のおもだった者たち」というのも出てきますね。その人たちも、またその当時、その地方と住んでいるユダヤ人たちに絶大な支配権を持っていた、文化的民族的に生活のリーダーシップを担っていた人たちだったわけですね。けれども行政的にはローマの支配下にあったわけです。そういう者たちがパウロのことを訴え出た、と書いてあるわけです。訴え出た、というのはどういうことか。その当時のユダヤ人の考え方、教えというのは、基本的には「(ユダヤ人は)アブラハムの子孫であり、神様の真理を、他民族にも伝えるために選ばれた民族」であったわけですね。けれどもそういう基本的な、神様が彼らを選んだ姿勢というものが、いろいろな理由で等閑視(いいかげんに)されていたわけですね。そして、彼らの民族的な、人間的な、そういう地上的な誉れとか選ばれたとか、そういう「(ローマが支配者だが)本当の支配者は神様から選ばれた自分たちなのだ」という誤った民族意識に凝り固まった形で、彼らの心に養われていたわけです。ユダヤ人の支配者たちは自分たちの支配力をもって、パウロを何とか途中で亡き者にしようと策略しているわけですけれども、図らずして、そのようなパウロを、ユダヤの権力よりももっともっと強大で、また上級権力とでも言うべきローマの権力によって、神様は守られました。表面的には囚人という立場ではありますけれども、だからこそローマの支配下に属する者としてユダヤのいかなる権力も、(ローマの権力を侵害するということはローマに対する反抗になるわけですから)簡単に手出しができないのです。考えてみれば少々複雑な構造ではありますけれども、そういう形によって、つまり人の計画がどのようなことであれ、その上を行く神様のご計画の内にパウロが守られているという構造になっていることがよく分かるのですね。

 そういうことの中でこの出来事を考えるときに、私たちは地上のこと、一時的な目に見える、政治的、社会的な栄枯盛衰しか分からない。そういうところを見て、自分の利害得失等を絡ませながら、良いの悪いのといろいろ評価しているわけでありますが、さらに考えますと、人間の目にはどのように映ろうと、神様の大きなご計画の中で、決して誤った神様の選択というものはない、誤った神様の導きというものもないということを気づかされるのではないでしょうか。私たち人間は、ものごとを計画し、予定を立て、その実現のために順序を考えたり方法を考えたりしながらそれを進めます。そのようなことを真剣にやることを神様は決して否定してはおられないのです。けれどもそういう、人間の営みにしか見えないようなことの中に、実は神様のもっと大きな計画が含まれて進められているという実相をも、気づき考えていく必要があるのではないでしょうか。

私たちが人間的な計画の中で見れば、事柄が妨げられ、そして命を奪われる危険さえも存在するような事柄の中に翻弄されているように見えます。けれども神様のご計画という大きな視点から見れば、それは神様のご計画が進展するための尊いご計画であるという様子も見えてくるのではないでしょうか。そのようなことを考えながら、パウロに起こったこのカイザリヤ、エルサレムにおける出来事を受け止め、理解し、そして私たちの生活の中に活()かすべき真理として考えて学んでいくことが大切なのではないでしょうか。

私たちの歩みには、家庭的にも社会的にもいろいろなことが起こってきます。それら一つ一つの中に、静まって神様の前で考えれば大切なことが内在しているものだということに気づくのではないでしょうか。今週もそのようなことへの気づきというものを神様によってさせていただけるようにと願いながら、日々を重ねていきたいものだと思います。

 ではお祈りいたしましょう。

「恵み深い天の神様、私たちが今日も、このようにあなたのよみがえりを記念する日に御前(みまえ)に集うことができましたことを感謝いたします。しかし私たちの社会が直面している課題を思います時に、自由に集えない不自由さはありますが、家庭において、あるいはまた今日もどうしても出なければならない職場において守っていらっしゃる方々の上にも共にいてくださいまして、どうか働きかけて祝福して、お強めくださいますようにお願いをいたします。いにしえの伝道者たちが担った、直面した事柄、そのような本質的な事柄は、私たちも社会の日々の歩みの中で直面しなければならない事柄でありますが、どうか今週もそのような事柄を正しく受け止め理解し、そしてその中でどうか生かしていただくことができるように導いてください。またどうしてもいろいろな事情で今朝はこのところには集うことのできない方も大勢いらっしゃることを覚えております。どうかそのような方々をも今あるところで、神様が天の慰めと天の力をもってお臨みください。知恵を与え、助けを与え、愛の励ましを与えてくださいまして、今週も主にあって一日一日をお過ごしになることができるようにお守りください。なかんずく、いろいろな身体的な、また生活的な困難に直面しながらあなたの前に生きようとしている方々の上に、あなたの恵みが豊かにありますように、お祈りいたします。これらの願い、感謝を込めて、主イエス様の尊いお名前を通してお祈りお願い申し上げます。アーメン。」 


2020419日 説教

「冷静に信仰を養う」

ペテロの手紙 第一11316

西﨑 泰生

 

皆さん。おはようございます。一歩も外に出られず、友達や知人に会う機会もなく、窮屈な生活を送っていることでしょう。今、世界中にまた日本中に蔓延(まんえん)しているコロナウイルス肺炎によって、身体的にも精神的にも苦しみの中にいる方が大勢います。治療に当たっている医療従事者の方も日々懸命に努力しています。それこそ、寝る暇もなく努力していることでしょう。そのような方々の努力に感謝し、一日でも早くこの危機が終息することを祈りましょう。そして、私たちができることを冷静に見極め、神様と共に生活していきましょう。

 

さて、今日も、与えられたペテロの手紙を通して自分が学んだことを分かち合いたいと思います。

ペテロがこの手紙を書いた時代では、クリスチャンたちは、生まれ育ったイスラエルの地から迫害によって散らされた時期でした。散らされた人々は、異国の地で孤独感を持ちながら、その土地になじもうと努力し、散らされた地でも集まり、共同体を形成しました。

いつの時代でも、どの場所でも迫害や困難がありました。昔、日本でもクリスチャンは迫害に遭っていました。江戸時代では、特に長崎地方で「隠れキリシタン」と言われている人たちが、密(ひそ)かに礼拝を守っていました。また、昭和の時代にあって、不幸にも大きな戦争を日本は起こしました。その中でも、信仰を失わずに礼拝を守った先輩もいました。

置かれた場所や状況は違っていても信仰を守り通すことは難しいものです。ですから、ペテロは散らされた人々、なおも迫害や苦難に遭っている人に励ましの手紙を書いたのです。

 あなた方の信じている神様は素晴らしい方であり、素晴らしいことをあなた方にしてくださったのだ。そして、今、あなた方は何をすべきか、どのような信仰生活を送っていけばよいのかを、書き送りました。

「ペテロの手紙第一」の学びの2回目です。今日は、113節~16節を中心に学んでいきます。

 

  聖書を一緒に読みましょう

13節 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れ

    のときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

 14節 従順な子どもになり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に

    従わず、

 15節 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あら

ゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。

 16節 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と

    書いてあるからです。」

 

 13節に「心を引き締め」とあります。「心の帯を締める」という意味があります。

ルカの福音書12章に再臨(イエス様が再び来られること)の備えの例え話の中で、「腰に帯を締めて、あかりをともしていなさい。」(1235節)とイエス様は言っておられます。この頃の人々は、大きな袋状の胴着を頭からかぶっていました。腰のところを帯またはベルトで締めていました。胴着は、普段はふくらはぎまでの丈(長さ)でありましたが、仕事をするために動きやすくしたい時は、ベルトあるいは帯を使って胴着をたくし上げ、ずっと丈を短くしました。そのことを「腰に帯を締める」と言っていたのです。イエス様の例え話に出てくる僕(しもべ)もこのように「腰に帯を締める」ことを行い、仕事に備えたのです。日本でも「襷(たすき)をかける」という言葉があります。仕事をしやすくすることはもちろんのこと、次のために備える意味もあります。

ペテロは、「心を引き締めて」という言葉を使い、「与えられた仕事、目の前のことに、集中する姿勢でいなさい。」と述べました。僕が主人の指示に従ってすぐに行動できるように服装を整えるためには、常に心の準備をすることが不可欠です。つまり「自己管理をすること」が求められていたのです。私たちはどうでしょうか。「自己管理」は、社会生活を健全に営む上でも必要なことです。しかし、「信仰生活を送るため」にもぜひ、しなければならないことです。皆さんは「自己管理」ができていますか。

さらに、「身を慎む」ことが勧められています。「お酒を飲まず、醒()めている。しらふでいる」という意味があります。内田和彦先生は、著書「ペテロの手紙第一に聴く~地上で神の民として生きる~」の中で、この言葉を「生活の中で、どんなに素晴らしいことがあっても、のめり込まないで、醒めている状態、つまり自制心を養いなさい。」と解説しています。

政府から出された「緊急事態宣言」の内容の大切な柱は、「感染防止のために『自粛』しなさい。」というものです。自分が感染しないだけでなく、他の人に感染をさせないということです。自己管理は、自分のためではなく、他の人にためにでも必要なことです。「自己管理」によって「信仰を表す」こともできるのです。

13節には、「ひたすら待ち望みなさい。」と述べられています。将来に目を向けなさい。つまり、キリストに会う準備を整えなさいということです。地上生活で終わるであれば、今を楽しく送ることが最善かもしれません。しかし、私たちは「イエス・キリストの現れのとき」を待っています。そのときには地上のどんな宝物より素晴らしい恵みがもたらされます。

 繰り返しますが、待ち望む生活は、自己管理ができる信仰生活です。

 14節では、救われる前の私たちの姿が述べられています。「無知で欲望のままに生きていた。」のです。以前一緒に学んだ「ヤコブの手紙」には、欲望の実態、罪をコントロールできずに、身を任せてしまう現実を教えられました。クリスチャンになっても、自分で自分をコントロールする難しさを味わっています。

 ペテロは、「従順な子供になること」を勧めています。「神様に従順な生き方」と「欲望に従う生き方」とは正反対です。子供が親に倣い、親の指導を素直に受ける生き方こそが求められています。そして、その姿勢が地上の悪や罪の支配・影響から逃れる道なのです。

 「以前の生き方」に戻ることなく、「朽ちない」天の財産を受け継ぐ者にふさわしい生き方で神様と共に歩んでいきましょう。手にある「欲望」を捨て、「従順」という宝を手にし、神の豊かさの中で、私たちを聖(きよ)く変えていただき、神ご自身に似た者と造り変えていただきましょう。

私たちの生活は信仰の完成を目指す歩みです。ペテロの手紙第一の1回目の説教では、私たちの国籍は天にあり、地上では居留者、旅人であるとお話ししました。天国の民としてふさわしい地上での生き方は、聖なる者に変えていただく生き方です。

 私たちは努力して天の国籍を手に入れたのではありません。その意味で誰も誇ることは出来ません。天の国籍を手に入れるただ一つの方法は、私たちの罪を身代わりとして背負ってくださり、十字架上で血を流された救い主イエス様を信じ、受け入れることです。何の努力を修行も悟りも要りません。一方的な神の憐(あわ)れみによって罪が赦(ゆる)され、神の子供にならせてくださったのです。

 神様からの明確な答えが得られないで悩んでしまうことが私たちにたびたびあります。世界中が「コロナウイルス」感染の危機に遭遇しているこの状況をどのように捉えていいか分からないでいます。「この困難を無くしてください」と私たちは祈ります。しかし、危機克服するための手段を尽くしても、亡くなる方があり感染者も増加しています。

 「この世に神がいるのなら、なぜ、この危機を人類に与えたのか。」「神も仏もいないのか。」クリスチャン以外の人は悪態をつくかもしれません。

 最近読んだ本によって、「祈りの答え」について考えさせられたことがありました。「ドノヴァーの碧(あお)い空~エミー・カーマイケルの祈りと生涯」(いのちのことば社発行)という本です。

エミー・カーマイケルは、イギリス出身の宣教師です。エミーは、17歳の時、「永遠に残るものに価値ある。」という真理に捉えられ、その働きのために身を捧(ささ)げる決意をしました。多くの働きや訓練の後、南インドで55年間、一度もイギリスに戻ることなく、ヒンズー教寺院に“神娼(しんしょう)”として捧げられていく子供たちを、身の危険を犯しながら救済する働きに取り組んだ人です。

そのエミー・カーマイケルの幼少期のエピソードを紹介します。先の本から一部引用します。

“エミーが三歳になったある日、彼女は自分の茶色の目が、母のように、大好きな青い色になるように祈って床に就いた。翌朝、勇んで鏡を覗き込んだ彼女の期待は見事に裏切られた。その時、どこからもなく声が聞こえて来た。

「『いいえ』も祈りの答えではありませんか?」

驚くべきことに、三歳にして彼女は一生わすれることができないレッスンを学んだ。沈黙ですら祈りの答えであり、時には「待ちなさい」、また、「はい」とともに「いいえ」という答えがあることを。“

さて、エミーという幼児の他愛ない体験と侮ってはいけません。私たちはすぐに答えを期待します。人間関係でも、白黒をつけて相手を尊敬したり、相手に失望したりします。

そして、「こんなに祈っても答えてくれない。」「期待通りの答えではなかった。」と神様に、失望することがあります。そんな時、クリスチャンである私たちの取るべき態度は、「心を引き締めて、身を慎み、ひたすら待ち望む」ことです。冷静に信仰深く行動することではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、自粛した生活の中でこそ、信仰を養い、外に出られなくても、家族や友人・知人に証(あか)しすることはできます。

 教会で兄弟姉妹方と礼拝を守ることはしばらくできません。しかし、以前学んだヤコブの手紙の1章の聖句を思い出してください。

  「私たちの兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと

 思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知って

 いるからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何

 一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

 締めくくりにエミー・カーマイケルさんの詩を贈ります。エミーさんは、多くの詩を残しています。「貝殻」という詩です。

 

「貝殻」

 

砂浜に ひとつの貝殻  その向こうには 果てしない海

おお救い主よ  あのうつろな貝殻はわたしで  大海は あなたです

 

寄せる波が 岸辺を洗い流すと  うずまき貝のくぼみの すみずみまで

きらめく水が入りこみ それを満たし  あふれ出す

 

貝殻には なんのほまれもありません。  すべての栄光は 輝かしい海に

あなたがわたしを あふれさせてくださるとき

 

低く横たわるわたしを―――あなたの貝殻を 洗い清めてください

あなたのみこころに この身をゆだねます  

おお力強い波よ 押し流し 清め  あなたの豊かさで満たしてください

                                

 

祈ります。

 私たちを一方的な憐れみにより、罪から救ってくださった父なる神様。あなたの御名(みな)

 賛美いたします。

  今、世界中の人たちが新型ウイルス感染の危機に遭遇しています。特効薬もなく、今まで蓄えた人類の知恵で、懸命に対応しつつも解決には至りません。このことが神様の与えたもう試練なのか私には分かりません。

 しかし、「父よ。お赦しください。彼らは何をしているのかがわからないのです。」イエス様が十字架上で叫ばれたように、私たちのしていることが知らずにあなたの前で罪であり、御一人子を十字架につけてしまいました。

 この危機を通してあなたが何を教えておられるのかも定かではありません。

 しかし、この危機が早く終息しますように、神様にお願いします。

 また、あなたを信じた者が、あなたに命じられたことを僕のように目の前のことをしっかり捉え、行っていくことができますようにお助けください。

しばらく兄弟姉妹方と会えません。一人一人の健康と信仰があなたによって守られ、あなたが一人一人に平安を与えてくださいますようにお願いいたします。

救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン

 

 


2020年4月12日() イースター礼拝 説教

「目を上げて」

説教者:藤原導夫  

マルコの福音書1614

 「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。

 彼女たちは、『墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。』とみなで話し合っていた。

 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」。

 

【受難週と新型コロナウイルス】

 

 新型コロナウイルスの脅威が世界中に深刻な影響を与えています。私たちの国でも、47日(火)に「緊急事態宣言」が出されました。この感染症が更に拡散して大きな被害をもたらさないための法的対策です。

 私たちの教会もそれを考慮し、教会堂に集まることを止め、各家庭で礼拝を守ることとなりました。

 最近は異常気象について「これまで経験したことのない」という表現がしばしば使われるようになりました。私にとって、恐らく皆さんの多くにとってもそうかもしれませんが、日曜日に教会の礼拝に集まることが出来なくなるということは「これまで経験したことのない」事態ではないでしょうか。

 

 先週は主イエスの十字架の苦しみと死を覚えて過ごす「受難週」でした。今回のこの深刻な事態は、そのキリストの苦しみに重なるように私には思えます。

 

 私はこの3月をもってお茶の水聖書学院の学院長を退任することとなりました。しかしその最後となる3月の卒業式は、今回の感染症の影響で中止となりました。そして、46日の入学式も延期となりました。47日からはお茶の水聖書学院のクラスで教え始める予定でしたが、それも延期となってしまいました。予定していたことがすべてキャンセルになってしまったのです。

 我が家のことを申しますと、妻は若い頃から肺が弱く、今回のことがとても心配です。新型コロナウイルスは特に肺にダメージを与え、時には死に至らせるということですので、気をつけています。妻も私も出来るだけ外出は避け、家に留まるようにしています。そして孫たちとの接触も控えなければならないような状態が続いています。

 

 世界を見渡せば、感染者数は100万人を超え、死者数は10万人に達するような勢いです。私たちは病いに苦しむ方々、愛する人を亡くした方々を覚え、その方々と連帯し、寄り添い、祈りたいと思います。

 今回のことで私もまた公の生活においても、個人の生活においても、深刻な影響を受けています。皆さんの場合も、おそらく同じではないでしょうか。

 

 最初に、先週は「受難週」であった、と申しました。主イエスは、私たちよりも先に受難の道を歩まれました。主イエスは、この私たちの苦しみ、悲しみ、涙をすでに味わっていてくださり、分かっていてくださるのです。主イエスは、今、私たちと共にこの苦難を受け止め、私たちと共に苦しんでいてくださるということを覚えたいと思います。

 

【香油を準備する女性たち】

 

 「受難週」が終わりますと「イースター」であり、それがまさに今日の礼拝です。神様は今日、何を私たちに語りかけてくださるのでしょうか?

 

 かつて、私はイスラエルを訪れたことがあります。その時に、現地の墓を見ることができました。日本の場合は、地面に穴を掘り、そこにお骨を埋め、その上に石碑を置きます。でも、主イエスの時代のイスラエルの墓は、それとはとても違っているのです。それは、小さな山や、小高い丘に、横穴を掘って作られます。観光バスに乗っていたら、山や丘に沢山の横穴が掘ってあるのが見えました。ガイドさんが「あれは昔のお墓の跡です」と言って、説明してくれました。主イエスの時代の墓は、そのように山や丘に横穴を掘って遺体を埋めたのです。それだけでなく、その穴の入り口に大きな石を立てかけて、穴をふさぐのです。実際にそのような大きな石で入り口がふさいである墓も見ることができました。

 

 主イエスは、十字架にかけられ、死なれました。そして、その体は墓に入れられたのです。皆さんに、今、お話ししたような墓です。山や丘に横穴を掘って、死んだ人をそこに入れ、入り口を大きな石でふさいでしまうのです。もう誰もその墓の中に入ることができません。主イエスの場合は、弟子たちが遺体を盗み出してはいけないということで、墓石に封印まで貼られてしまったのです。

 

 マルコ福音書第1612節には、このように記されています。

 「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた」。

 

 主イエスが十字架にかけられ、そして死なれたのは、「金曜日」です。そして、すぐその日のうちに、墓に葬られました。昔のイスラエルでは、死んだ人に油を塗ってきれいにしたり、腐るのを予防する習慣があったようです。でも「土曜日」は「安息日」であり、働いてはなりません。

 イスラエルでは、一日は夕方の6時から始まるとされていました。ですからもう働いてもよい日曜日の夕方がやって来ると、女性たちは香料を買ったのです。でも、真っ暗な夜中には墓に行くことはできません。そこで、同じ日曜日ですが、夜が去り朝がやって来るのを待って、主イエスの墓に出掛けたのでした。

 

【あの大石はどうなるのか?】

 

 でも、そこにはとても難しい問題がありました。墓の入り口に置いてある、あの大きな石をどうするかということです。女の人たちは3人いました。「マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメ」(16:1)です。

 この3人の女の人たちの力では、とてもそれを取りのけることはできません。

 ですから、3人はこのように話し合っていました。「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」(16:3

 

 私たちにも、似たようなことが時に起こるのではないでしょうか。主イエスのために何かをしたい、隣人のために何かをしたい。でも自分には、自分たちには、とても力がない。どうしたらよいのか。そのような時に、私たちはそこでもう諦めてしまうこともあるのではないでしょうか。「とても無理だ、やっても出来ない、何をやっても無駄だ」。

 

 でも、この3人の女の人は違っていました。墓の入り口の大きな石を自分たちの力で取り除くことはできないと分かってはいました。それでも、出かけて行ったのです。それは、向こう見ずの信仰ではないでしょうか。それが不可能に思えたとしても、主イエスに対するやむにやまれぬ愛によって彼女たちは押し出されたのでしょう。

 そのように踏み出した時に何が起こったか、聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」(16:4)。思ってもみなかったこと、考えてもみなかったことが起こったのです。神が、働いてくださり、助けてくださった。奇跡が起こり、困難は取り除かれたのです!

 

 聖書には、「ところが、目を上げて見ると」、と書いてあります。主イエスに香油を塗りたい心があっても、それが実際にできるかしら、と悩んでいたと思います。ですから、うつむいて、まだ外は暗くもあったでしょうから足元を見つめ、内なる気持ちもそれと同じように暗くなって歩いていたかもしれません。でも墓に到着すると、「目を上げて見た」のです。

 

 「目を上げて見る」ということは、自分自身や自分の困難な状況から目を転じて、神を見上げるということを示唆しているのではないでしょうか。そのようにした時に、彼女たちは驚くべき出来事に出会ったのです。なんと不思議なことに、墓の入り口に置かれていたはずの大石は取り除かれていたのです!

 なんと、助けは人間の側からではなく、神の側から到来したのです!

 

【目を上げて見よう!】

 

 今や、世界中を覆っている新型コロナウイルスの脅威は、私たち人間の手にはとても負えない状況にまで膨れ上がっています。でも、私たちは主イエスの墓に向かう女性たちに私たちを重ねてみたいと思うのです。

 私たちはこのような緊急事態の中で、どこにその助けや心の()り所を求めたらよいのでしょうか?

 私たちが行くべきところはどこなのでしょうか?

 それは、イエス・キリストのもとではないでしょうか。

 

 今回の新型コロナウイルスの脅威は、まるで墓の入り口に置かれた大石のように思われます。誰がこの大石を動かすことができるのでしょう? 誰がこの新型コロナウイルスを終息させることができるのでしょう? もちろん、人間の働き、努力は必要です。多くの方々がその解決のため取り組んでいてくださいます。医療関係者の方々、国や自治体の指導者の方々、食料や生活に必要なインフラを支えていてくださる方々。そして私たちもまたそのような方々と連なり、解決のため自分なりに頑張り、努力していると思います。

 

 しかし、私たち人間の頑張り、努力と共に働いて、更にはそれらを貫き・超えてと言ったらいいのでしょうか、解決は向こう側からやってくる、と私は期待し、信じています。それは神の側からやってくる! キリストを死からよみがえらせてくださった力と愛に満ちた神からこそやってくる!これこそ私たちが今日聴くべきイースターのメッセージではないでしょうか!

 

 「今、ここにおいても」、その素晴らしい神の出来事に出会わせていただける者として、私たちは信仰の目を高く上げようではありませんか!

 

 あの墓の入り口に置かれた大石が神によって除かれたように、私たちの前に立ちはだかっている困難を神が取り除いてくださることを期待し続け、信じ続け、祈り続けようではありませんか!


2020年4月5日(日) 説教

 「主の祈り」

マタイ6515

冨岡 昇 

 

序論

だいぶ前になりますが、私の家に太郎という名の犬を飼っていました。食欲旺盛(おうせい)でおせんべいやお饅頭(まんじゅう)をあげると、「パクッ」と一口で食べてもっとないのかという目でこちらを見るのです。味わって食べるでもなく、ありがとうという感謝の気持ちを表すこともなく、ましてや神様に食前の感謝の祈りをささげることもなく、一口でペロッと食べるのです。もっとも祈りは人間だけにできる崇高な行為ですから当然ですが。

さて、皆さんは毎日どのように祈っているでしょうか。もちろん、こう祈らなければならないという決まった型があるわけではないのですから、自由に祈ってよいのです。しかし、祈りの秘訣(ひけつ)、神様がこう祈ってほしいと望んでいる祈り、というものがあるならば、それを知るとき、祈りは私たちの人生を大きく変えるものとなるのです。今日は「主の祈り」からその秘訣を見ていきたいと思います。

 

【1】避けるべき祈り

イエス様は主の祈りを教える前に、避けるべき祈りについて語りました。

まず、パリサイ人の祈り、つまり偽善的な祈りです。パリサイ人の中には人に見られたくて会堂や大通りの四つ角に立って祈る者がいました。自分がどれほど祈り深い敬虔(けいけん)な者であるか、自己アピールしていたのです。彼らは熱心にお祈りするのですが、その心は神ではなく人の方に向いていたのです。私たちも人前で祈るとき、人を意識しがちです。人前で祈るとき、神に話しかけることに集中し、他の人がどう思っているかは考えないように気をつけなければなりません。

2番目は、異邦人の祈りです。彼らは呪文のように何度も何度も同じ言葉を繰り返して言えば、神が祈りを聞いてくださると思い違いしていました。同じ願いごとを持って何度も神のところに行くことは悪いことではありません。イエス様は根気強い祈りを奨励しています。ここでイエス様が気を付けるようにと注意しているのは、真心が感じられない、単なる言葉の繰り返しをするだけの祈りです。

 

【2】前半の3つの要素(神の御心(みこころ))

避けるべき祈りに続いて、イエス様はどのように祈るべきかを教えられます。主の祈りは、「天にましますわれらの父よ。……」と一言一句たがわず繰り返し唱えるようにというよりもむしろ、「このような内容のことを祈りなさい」という意味で、手本として一つの祈りのサンプルを提供されたものです。主の祈りは6つの要素から成っています。前半の3つの要素は「神のみ心」に関するもので、後半の3つの祈りは「自分の必要」に関するものです。祈りには組み立てが必要です。組み立てのないメッセージは聞いているのがつらいですね。話があっちこっちに飛んだら何を言いたいのか理解しにくいです。祈りも同じです。誰かのために執り成しをしていたと思ったら、いつの間にか教会の働きを祈っている。祈りがあっちこっちに行ってしまうのです。それでも神様が混乱するということはないでしょうが、でも祈りには組み立てが必要なのです。

要素1.「天にいます私たちの父よ」

・祈りの第1の要素は「天にいます私たちの父よ」という呼びかけです。この父を意味するアラム語「アバ」は「パパ」というニュアンスで、幼児が自分のお父さんに話しかけるときの言葉でした。今でもイスラエルに行くと「アバ、アバ」という言葉を聞くそうです。小さな子供は信頼しきってパパと呼びかけますね。大丈夫かなと躊躇(ちゅうちょ)することはありません。「父よ」という呼びかけは神への完全な信頼から出てくる言葉です。

・当時ユダヤ人は「主権者なる主よ」とか、「宇宙の王なる主よ」などと仰々しいタイトルを幾つも並べて祈る習慣がありました。それに対して、イエス様が教えられた「父」という言葉には、私たち一人一人に限りない愛と関心を持ち、喜んでその祈りを聞こうとしている神の姿が暗示されています

・イエス様は、「天におられる」また「私たちの」という言葉を付け加えられました。それは、親しい父が同時に主権と尊厳と威厳に満ちた方であること、また神は自分一人の父であるのではなく、クリスチャン全ての人にとって父であることを強調するためです。

要素2.「御名があがめられますように」

・「あがめられる」は「御名を聖別する」という意味です。「聖別する」は神ご自身のものとして選び分けておくことです。いけにえの動物などを神のために選び分けることを「聖別する」と言います。そして「御名」は、ヘブル語では「神ご自身」を表します。

・ですから「御名があがめられますように」とは、神ご自身が神のものとして選び分けられますように、つまり、神が全被造物から区別され、神を神としてあがめられますようにとの願いです。

・ですから祈るとき私たち自身がまず、自分が信じている神の偉大さやご性質を思い起こし、神をたたえるのです。神は永遠に生きている方、どこにでもおられる方、驚くほど深い愛の方であることなどについて黙想するのです。

・祈祷会で学んだリック・ウォレン先生の本にこのようにあります。神は創造主です。神は、目的をもって私たちを造られました。私たちは決して偶然に生まれたのではないのです。

・神は愛です。神は愛を持っているというのではありません。神は愛そのものなのです。神は皆さんを愛するために、皆さんを造りたいと思われたのです。神はこう言っておられます。「あなたが生まれたときから、わたしはあなたを導いてきた。あなたが生まれたときから、あなたの面倒を見てきた。あなたが年老いても、わたしの心は変わらない。あなたの髪が白くなっても、わたしはあなたの世話をしよう。わたしがあなたを造ったのだから、わたしがあなたの面倒を見よう。」

・神は支配者です。私たちと私たちの住んでいるこの世界も含めてすべてのものを支配しておられます。しかも神の支配には失敗はありません。「しまった」とは決して言われません。私たちの人生に起こる出来事はすべて、たとえそれが、自ら招いてしまった問題や困難であったとしても、神のご計画の中に含まれていて、それらすべてを用いて私たちに対する人生の目的を全うされるのです。

・このように神の偉大さやご性質が見えてくると、抱えている問題は小さくなります。

要素3.御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように

・神の支配と神の御心が実現するようにとの祈りです。「御国が来ますように」には2つの内容が含まれています。1つは、キリストが早く再臨され、天の御国が早く完成しますように、という願いです。もう1つは、福音宣教の進展によって、この地上にすでに始まっている「天の御国、すなわち神の支配」がさらに拡大していくように、という願いです。

・具体的には、毎月発行している「祈りのしおり」を活用して、教会のため、牧師や役員のため、宣教師のために祈る。まだ救われていない人が救われるように祈る。さらに、自分がどのような方法で福音宣教のために奉仕ができるかについても、祈ることです。

 

【3】後半の3つの要素(自分の必要)

要素4.「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」

・これからは毎日の生活に必要な3つの事柄についての祈りです。主の祈りの特徴は、神の御心、そして、自分の必要という順番です。私たちはまず自分になってしまいます。でもクリスチャンの祈りはまず神なのです。

・まず日ごとの糧、肉体的な必要のための祈りです。食べ物以外の全ての必要、例えば経済的試練、人間関係の試練、肉体的試練についても、力が与えられるよう祈ります。私たちは日常の必要について神に祈ることが求められているのです。 

8節に「神は、・・・・・・あなたがたの必要なものを知っておられる」とあります。神は私たちの必要を全部ご存じなのだから祈らなくてもよいのではないかという人がいるもしれません。しかし、祈りの目的は、祈りの答えを通して神が生きておられることを体験することにあります。祈らずして与えられたものについては、それが神から与えられたと自覚できないのが人間です。偶然の所産にするか、自分の力に帰するか、どちらかです。祈る人だけが、それは偶然でも、自分の力によるのでもなく、神の恵みによることを正しく認識できるのです。その意味で、祈りは祈る人にとって必要なのです。神はいつでも与える用意ができています。私たちの側に受ける用意ができていないところが問題なのです。

要素5.「私たちの負い目をお(ゆる)しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」

・これは、罪の赦しを求める祈りです。ここで重要なことは、神からの赦しと人を赦すこととには密接な関係を持っているということです。この関係において大切な点は、あくまでも神の恵みによる無条件の赦しが大前提としてあり、その前提に立って、他の人を赦すべきことを勧めています。神の無条件の赦しが先行しています。

・主人のあわれみによって膨大な負債を帳消しにしてもらったしもべ、そのしもべが自分から借りのある者を赦さずに、借金を返すまで(ろう)に投げ入れたイエスの例え話(マタイ18:2135)にあるように、私たちもそのような事態になることが多々あります。日ごとに私たちが神からの無条件の赦しを受けていることを絶えず意識しながら生きるために、この祈りはとても重要な祈りと言えます。

要素6.「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」

・この「試みに会わせないで」は私たちが信仰者として成熟するための試練に会わせないでという意味ではありません。この祈りは「私たちを()しき者、すなわち悪魔の策略に陥ることのないように、私たちをお守りください。」という意味です。私たちは霊的な戦いの中に置かれています。この世から隔離された「無風状態」の中に置かれているのではありません。ですから、霊的な戦いの中で、守りが与えられるように祈る必要があります。私たちは、主にあって、その大能の力によって強められる必要があるのです。

【まとめ】私は朝祈るとき、まず自分の必要について祈ることが多いです。「今日は…がありますから、どうぞ助けてください」と、それに多くの時間を費やします。今回このメッセージを準備している中で、反省させられました。神についての祈りが後回しになっていたのです。それで祈るとき、まず神様を思い巡らし、次に福音宣教が進んでいくようにと、牧師先生・役員・教会の働き・連合の諸教会・世界宣教のために祈り、次に自分の必要のために祈るように方向転換しました。

 

今日学んだ主の祈りの6つの要素、①呼びかけ、②神を褒めたたえること、③福音宣教の拡大、④日々の必要、⑤罪の赦し、⑥信仰の戦いの守り、これによって祈りを組み立てるとき、私たちの祈りが真の祈りへと回復していくのです。