「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレの イエス・キリストの名によって、歩きなさい」使徒3:6

富は、私たちに快さを与える。欲望のままに欲しい物を持ち、快適 だ。しかし、どれだけ所有しても、人の心に決して満足を与えるこ とはない。幾ら持っても不満足であり、もっと欲しい、これで充分 ということがない。これが「貪欲」だ。貪欲は底無しであるため、 悲惨であり、哀れだ。

 

ペテロとヨハネが宮に入る時に、お金を求める男がいた。その男に ペテロは、はっきりと「金銀は私には無い」と答えた。私たちは何 を求めているだろう。何を求めて御言葉に向かっているだろう。実 は、この男のように、自分の欲しいもの、都合良いものを求めてい るのかも知れない。

 

「自分がこの世で成功して生きること」「人から人格者と思われた い」「自己実現のため」「充足感を、生きがいを得たい」有形無形 の金銀だろうか。しばしば自分が求めているものと、神が意図し、 下さるものとが違う。方向違いに求めている。「しかし私にあるも のを上げよう」私たちが欲しいものでなく、神が必要と思われるも の、最も良いものを下さる。

 

「イエス・キリストの名によって歩く」これを与えて下さるのであ り、これこそが彼にとって最も必要なものであり、私たちも同様だ。 主との交わりを回復させて下さり、日毎に生ける交わりの中で、神 を実感しつつ、賛美を与え、喜びを下さる。何と幸いだろう。

 

---------- 主を知らないでいた時は様々な目的、生きがいを原動力に歩んでいた。 今も簡単に主によって歩む喜びが他のものに取って代わる事を経験 する。主の名によって歩みを始めた美しの門へいつも立ち帰ろう。