東京中央バプテスト教会 2020/04/12() イースター礼拝 説教

「目を上げて」

説教者:藤原導夫  

マルコの福音書1614

 「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。

 彼女たちは、『墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。』とみなで話し合っていた。

 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」。

 

【受難週と新型コロナウイルス】

 

新型コロナウイルスの脅威が世界中に深刻な影響を与えています。私たちの国でも、47日(火)に「緊急事態宣言」が出されました。この感染症が更に拡散して大きな被害をもたらさないための法的対策です。

私たちの教会もそれを考慮し、教会堂に集まることをやめ、各家庭で礼拝を守ることとなりました。

 最近は異常気象について「これまで経験したことのない」という表現がしばしば使われるようになりました。私にとって、恐らく皆さんの多くにとってもそうかもしれませんが、日曜日に教会の礼拝に集まることができなくなるということは「これまで経験したことのない」事態ではないでしょうか。

 

 先週は主イエスの十字架の苦しみと死を覚えて過ごす「受難週」でした。今回のこの深刻な事態は、そのキリストの苦しみに重なるように私には思えます。

 

 私はこの3月をもってお茶の水聖書学院の学院長を退任することとなりました。しかしその最後となる3月の卒業式は、今回の感染症の影響で中止となりました。そして、46日の入学式も延期となりました。47日からはお茶の水聖書学院のクラスで教え始める予定でしたが、それも延期となってしまいました。予定していたことが全てキャンセルになってしまったのです。

 

 我が家のことを申しますと、妻は若い頃から肺が弱く、今回のことがとても心配です。新型コロナウイルスは特に肺にダメージを与え、時には死に至らせるということですので、気をつけています。妻も私もできるだけ外出は避け、家にとどまるようにしています。そして孫たちとの接触も控えなければならないような状態が続いています。

 

 世界を見渡せば、感染者数は100万人を超え、死者数は10万人に達するような勢いです。今回のことで、私は公の生活においても、個人の生活においても、深刻な影響を受けています。皆さんの場合も、おそらく同じではないでしょうか。

 

 最初に、先週は「受難週」であった、と申しました。主イエスは、私たちよりも先に受難の道を歩まれました。主イエスは、この私たちの苦しみ、悲しみ、涙をすでに味わっていてくださり、分かっていてくださるのです。主イエスは、今、私たちと共にこの苦難を受け止め、私たちと共に苦しんでいてくださるということを覚えたいと思います。

 

【香油を準備する女性たち】

 

 「受難週」が終わりますと「イースター」であり、それがまさに今日の礼拝です。神様は今日、何を私たちに語りかけてくださるのでしょうか?

 

 かつて、私はイスラエルを訪れたことがあります。その時に、墓を見ることができました。日本の場合は、地面に穴を掘り、そこにお骨を埋め、その上に石碑を置きます。でも、主イエスの時代のイスラエルの墓は、それとはとても違っているのです。それは、小さな山や、小高い丘に、横穴を掘って作られます。観光バスに乗っていたら、山や丘に沢山の横穴が掘ってあるのが見えました。ガイドさんが「あれは昔のお墓の跡です」と言って、説明してくれました。主イエスの時代の墓は、そのように山や丘に横穴を掘って遺体を埋めたのです。それだけでなく、その穴の入り口に大きな石を立てかけて、穴をふさぐのです。実際に、そのような大きな石で入り口がふさいである墓も見ることができました。

 

 主イエスは、十字架にかけられて死なれました。そして、その体は墓に入れられたのです。皆さんに、今、お話ししたような墓です。山や丘に横穴を掘って、死んだ人をそこに入れ、入り口を大きな石でふさいでしまうのです。もう誰もその墓の中に入ることができません。主イエスの場合は、弟子たちが遺体を盗み出してはいけないということで、墓石に封印まで貼られてしまったのです。

 

 マルコ福音書第1612節には、このように記されています。

 「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた」。

 

 主イエスが十字架にかけられ、そして死なれたのは、「金曜日」です。そして、すぐその日のうちに、墓に葬られました。昔のイスラエルでは、死んだ人に油を塗ってきれいにしたり、腐るのを予防する習慣があったようです。でも「土曜日」は「安息日」であり、働いてはなりませんでした。

 イスラエルでは、一日は夕方の6時から始まるとされていました。ですからもう働いてもよい日曜日の夕方がやって来ると、女性たちは香料を買ったのです。でも、真っ暗な夜中には墓に行くことはできません。そこで、同じ日曜日ですが、朝がやって来るのを待って、主イエスの墓に出掛けたのでした。

 

【あの大石はどうなるのか?】

 

 でも、そこにはとても難しい問題がありました。墓の入り口に置いてある、あの大きな石をどうするかということです。女の人たちは3人いました。「マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメ」(16:1)です。

 この3人の女の人たちの力では、とてもそれを取りのけることはできません。

 ですから、3人はこのように話し合っていました。「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」(16:3

 

 私たちにも、似たようなことが時に起こるのではないでしょうか。主イエスのために何かをしたい、誰かのために何かをしたい。でも自分には、自分たちには、とても力がないので、どうしてよいか分からない。そのような時に、私たちはそこでもう諦めてしまう。「とても無理だ、やってもできない、何をやっても無駄だ」と。

 

 でも、この3人の女の人は違っていました。とても、墓の入り口の大きな石を自分たちの力で取り除くことはできないと分かってはいました。それでも、出かけていったのです。それは、すばらしいことではないでしょうか。困難な状況であったとしても、主イエスに対する やむにやまれぬ愛が彼女たちを押し出したのでしょう。

 

 そのようにした時に何が起こったか、聖書の言葉に耳を傾けてみましょう。「ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」(16:4)。思ってもみなかったこと、考えてもみなかったことが起こったのです。神が働いてくださり、助けてくださった。奇跡が起こり、困難は取り除かれたのです!

 

 聖書には、「ところが、目を上げて見ると」、と書いてあります。主イエスに油を塗りたい心があっても、それが実際にできるかしら、と悩んでいたのだと思います。ですから、うつむいて、まだ外は暗くもあったでしょうから足元を見つめ、内なる気持ちも同じように暗くなって歩いていたかもしれません。でも、墓に到着すると、「目を上げて見た」のです。

 

 「目を上げて見る」ということは、自分自身や自分の困難な状況から目を転じて、神を見上げるということを示唆しているのではないでしょうか。その時に、彼女たちは驚くべき出来事に出会ったのです。何と不思議なことに、墓の入り口に置かれていたはずの大石は取り除かれていたのです!

 なんと、助けは人間の側からではなく、神の側から到来したのです!

 

【目を上げて見よう!】

 

 今や、世界中を覆っている新型コロナウイルスの脅威は、私たち人間の手にはとても負えない状況にまで膨れ上がっています。でも、私たちは主イエスの墓に向かう女性たちに私たちを重ねてみたいと思うのです。

 私たちはこのような緊急事態の中で、どこに心の()り所を求めたらよいのでしょうか?

 私たちが行くべきところはどこなのでしょうか?

 それは、イエス・キリストのもとではないでしょうか。

 

 今回の新型コロナウイルスの脅威は、まるで墓の入り口に置かれた大石のように思われます。誰がこの大石を動かすことができるのでしょうか? 誰がこの新型コロナウイルスを終息させることができるのでしょう? もちろん、人間の働き、努力は必要です。多くの方々がその解決のため取り組んでいてくださいます。医療関係者の方々、国や自治体の指導者の方々、食料や生活に必要なインフラを支えていてくださる方々。そして私たちもまたそのような方々と連なり、解決のため自分なりに頑張り、努力していると思います。

 

 しかし、私たち人間の頑張り、努力と共に働いて、更にはそれらを貫き・超えてと言ったらいいのでしょうか、解決は向こう側からやってくる、と私は期待し、信じています。それは神の側からやってくる! キリストを死からよみがえらせてくださった力と愛に満ちた神からこそやってくる! これが今日のイースターのメッセージではないでしょうか!

 

 「今、ここにおいて」、そのすばらしい出来事に出会わせていただける者として、私たちは信仰の目を高く上げようではありませんか!

 

 あの墓の入り口に置かれた大石が神によって除かれたように、私たちの前に立ちはだかっている困難を神が取り除いてくださることを期待し続け、信じ続け、祈り続けようではありませんか!


マタイ6515節 「主の祈り」

 

序論

だいぶ前になりますが、私の家に太郎という名の犬を飼っていました。食欲旺盛(おうせい)でおせんべいやお饅頭(まんじゅう)をあげると、「パクッ」と一口で食べてもっとないのかという目でこちらを見るのです。味わって食べるでもなく、ありがとうという感謝の気持ちを表すこともなく、ましてや神様に食前の感謝の祈りをささげることもなく、一口でペロッと食べるのです。もっとも祈りは人間だけにできる崇高な行為ですから当然ですが。

さて、皆さんは毎日どのように祈っているでしょうか。もちろん、こう祈らなければならないという決まった型があるわけではないのですから、自由に祈ってよいのです。しかし、祈りの秘訣(ひけつ)、神様がこう祈ってほしいと望んでいる祈り、というものがあるならば、それを知るとき、祈りは私たちの人生を大きく変えるものとなるのです。今日は「主の祈り」からその秘訣を見ていきたいと思います。

 

【1】避けるべき祈り

イエス様は主の祈りを教える前に、避けるべき祈りについて語りました。

まず、パリサイ人の祈り、つまり偽善的な祈りです。パリサイ人の中には人に見られたくて会堂や大通りの四つ角に立って祈る者がいました。自分がどれほど祈り深い敬虔(けいけん)な者であるか、自己アピールしていたのです。彼らは熱心にお祈りするのですが、その心は神ではなく人の方に向いていたのです。私たちも人前で祈るとき、人を意識しがちです。人前で祈るとき、神に話しかけることに集中し、他の人がどう思っているかは考えないように気をつけなければなりません。

2番目は、異邦人の祈りです。彼らは呪文のように何度も何度も同じ言葉を繰り返して言えば、神が祈りを聞いてくださると思い違いしていました。同じ願いごとを持って何度も神のところに行くことは悪いことではありません。イエス様は根気強い祈りを奨励しています。ここでイエス様が気を付けるようにと注意しているのは、真心が感じられない、単なる言葉の繰り返しをするだけの祈りです。

 

【2】前半の3つの要素(神の御心(みこころ))

避けるべき祈りに続いて、イエス様はどのように祈るべきかを教えられます。主の祈りは、「天にましますわれらの父よ。……」と一言一句たがわず繰り返し唱えるようにというよりもむしろ、「このような内容のことを祈りなさい」という意味で、手本として一つの祈りのサンプルを提供されたものです。主の祈りは6つの要素から成っています。前半の3つの要素は「神のみ心」に関するもので、後半の3つの祈りは「自分の必要」に関するものです。祈りには組み立てが必要です。組み立てのないメッセージは聞いているのがつらいですね。話があっちこっちに飛んだら何を言いたいのか理解しにくいです。祈りも同じです。誰かのために執り成しをしていたと思ったら、いつの間にか教会の働きを祈っている。祈りがあっちこっちに行ってしまうのです。それでも神様が混乱するということはないでしょうが、でも祈りには組み立てが必要なのです。

要素1.「天にいます私たちの父よ」

・祈りの第1の要素は「天にいます私たちの父よ」という呼びかけです。この父を意味するアラム語「アバ」は「パパ」というニュアンスで、幼児が自分のお父さんに話しかけるときの言葉でした。今でもイスラエルに行くと「アバ、アバ」という言葉を聞くそうです。小さな子供は信頼しきってパパと呼びかけますね。大丈夫かなと躊躇(ちゅうちょ)することはありません。「父よ」という呼びかけは神への完全な信頼から出てくる言葉です。

・当時ユダヤ人は「主権者なる主よ」とか、「宇宙の王なる主よ」などと仰々しいタイトルを幾つも並べて祈る習慣がありました。それに対して、イエス様が教えられた「父」という言葉には、私たち一人一人に限りない愛と関心を持ち、喜んでその祈りを聞こうとしている神の姿が暗示されています

・イエス様は、「天におられる」また「私たちの」という言葉を付け加えられました。それは、親しい父が同時に主権と尊厳と威厳に満ちた方であること、また神は自分一人の父であるのではなく、クリスチャン全ての人にとって父であることを強調するためです。

要素2.「御名があがめられますように」

・「あがめられる」は「御名を聖別する」という意味です。「聖別する」は神ご自身のものとして選び分けておくことです。いけにえの動物などを神のために選び分けることを「聖別する」と言います。そして「御名」は、ヘブル語では「神ご自身」を表します。

・ですから「御名があがめられますように」とは、神ご自身が神のものとして選び分けられますように、つまり、神が全被造物から区別され、神を神としてあがめられますようにとの願いです。

・ですから祈るとき私たち自身がまず、自分が信じている神の偉大さやご性質を思い起こし、神をたたえるのです。神は永遠に生きている方、どこにでもおられる方、驚くほど深い愛の方であることなどについて黙想するのです。

・祈祷会で学んだリック・ウォレン先生の本にこのようにあります。神は創造主です。神は、目的をもって私たちを造られました。私たちは決して偶然に生まれたのではないのです。

・神は愛です。神は愛を持っているというのではありません。神は愛そのものなのです。神は皆さんを愛するために、皆さんを造りたいと思われたのです。神はこう言っておられます。「あなたが生まれたときから、わたしはあなたを導いてきた。あなたが生まれたときから、あなたの面倒を見てきた。あなたが年老いても、わたしの心は変わらない。あなたの髪が白くなっても、わたしはあなたの世話をしよう。わたしがあなたを造ったのだから、わたしがあなたの面倒を見よう。」

・神は支配者です。私たちと私たちの住んでいるこの世界も含めてすべてのものを支配しておられます。しかも神の支配には失敗はありません。「しまった」とは決して言われません。私たちの人生に起こる出来事はすべて、たとえそれが、自ら招いてしまった問題や困難であったとしても、神のご計画の中に含まれていて、それらすべてを用いて私たちに対する人生の目的を全うされるのです。

・このように神の偉大さやご性質が見えてくると、抱えている問題は小さくなります。

要素3.御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように

・神の支配と神の御心が実現するようにとの祈りです。「御国が来ますように」には2つの内容が含まれています。1つは、キリストが早く再臨され、天の御国が早く完成しますように、という願いです。もう1つは、福音宣教の進展によって、この地上にすでに始まっている「天の御国、すなわち神の支配」がさらに拡大していくように、という願いです。

・具体的には、毎月発行している「祈りのしおり」を活用して、教会のため、牧師や役員のため、宣教師のために祈る。まだ救われていない人が救われるように祈る。さらに、自分がどのような方法で福音宣教のために奉仕ができるかについても、祈ることです。

  

【3】後半の3つの要素(自分の必要)

要素4.「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」

・これからは毎日の生活に必要な3つの事柄についての祈りです。主の祈りの特徴は、神の御心、そして、自分の必要という順番です。私たちはまず自分になってしまいます。でもクリスチャンの祈りはまず神なのです。

・まず日ごとの糧、肉体的な必要のための祈りです。食べ物以外の全ての必要、例えば経済的試練、人間関係の試練、肉体的試練についても、力が与えられるよう祈ります。私たちは日常の必要について神に祈ることが求められているのです。 

8節に「神は、・・・・・・あなたがたの必要なものを知っておられる」とあります。神は私たちの必要を全部ご存じなのだから祈らなくてもよいのではないかという人がいるもしれません。しかし、祈りの目的は、祈りの答えを通して神が生きておられることを体験することにあります。祈らずして与えられたものについては、それが神から与えられたと自覚できないのが人間です。偶然の所産にするか、自分の力に帰するか、どちらかです。祈る人だけが、それは偶然でも、自分の力によるのでもなく、神の恵みによることを正しく認識できるのです。その意味で、祈りは祈る人にとって必要なのです。神はいつでも与える用意ができています。私たちの側に受ける用意ができていないところが問題なのです。

要素5.「私たちの負い目をお(ゆる)しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」

・これは、罪の赦しを求める祈りです。ここで重要なことは、神からの赦しと人を赦すこととには密接な関係を持っているということです。この関係において大切な点は、あくまでも神の恵みによる無条件の赦しが大前提としてあり、その前提に立って、他の人を赦すべきことを勧めています。神の無条件の赦しが先行しています。

・主人のあわれみによって膨大な負債を帳消しにしてもらったしもべ、そのしもべが自分から借りのある者を赦さずに、借金を返すまで(ろう)に投げ入れたイエスの例え話(マタイ18:2135)にあるように、私たちもそのような事態になることが多々あります。日ごとに私たちが神からの無条件の赦しを受けていることを絶えず意識しながら生きるために、この祈りはとても重要な祈りと言えます。

要素6.「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」

 ・この「試みに会わせないで」は私たちが信仰者として成熟するための試練に会わせないでという意味ではありません。この祈りは「私たちを()しき者、すなわち悪魔の策略に陥ることのないように、私たちをお守りください。」という意味です。私たちは霊的な戦いの中に置かれています。この世から隔離された「無風状態」の中に置かれているのではありません。ですから、霊的な戦いの中で、守りが与えられるように祈る必要があります。私たちは、主にあって、その大能の力によって強められる必要があるのです。

【まとめ】私は朝祈るとき、まず自分の必要について祈ることが多いです。「今日は…がありますから、どうぞ助けてください」と、それに多くの時間を費やします。今回このメッセージを準備している中で、反省させられました。神についての祈りが後回しになっていたのです。それで祈るとき、まず神様を思い巡らし、次に福音宣教が進んでいくようにと、牧師先生・役員・教会の働き・連合の諸教会・世界宣教のために祈り、次に自分の必要のために祈るように方向転換しました。

 

今日学んだ主の祈りの6つの要素、①呼びかけ、②神を褒めたたえること、③福音宣教の拡大、④日々の必要、⑤罪の赦し、⑥信仰の戦いの守り、これによって祈りを組み立てるとき、私たちの祈りが真の祈りへと回復していくのです。