「ようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、 話を聞いたり質問したりしているのを見つけた」ルカ2:46

主が12歳の時に、ヨセフとマリヤは過越の祭りのために、エルサレ ムに上った。そして帰路に着くが、主は、まだとどまっておられた。 1日歩いた後、我が子が見当たらない事に気づき、心配と不安の夜 を過ごし、翌日、都に引き返した。都に着き、3日目に都中を探し 回り、やっと宮で見つけた。

 

教師たちの真中で、話を聞き質問していた。人々はその知恵と答え に驚いた。両親は驚き、心配し捜し回った事を告げた。すると主は、 「わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのです か。」と答えた。主は肉の父ヨセフと、霊の父がいる事を明かされ た。ヨセフとマリヤは御使いからの託宣、数々の預言、奇跡による 誕生等を通して、イエスが神の子であることを理解していた。しか し、いつしか肉親、我が子になっていた。

 

主は両親に、自分は神から来て、メシヤとして遣わされた事を思い 起こさせようとされた。その時、両親には意味がわからなかったが、 マリヤは心にしっかり留めていた。そして主は一緒に帰り、両親に 仕えられた。主は神の子であるとの自覚の後、仕えるために帰られ た。

 

真の信仰とは、人に仕える事となって現れる。仕えるとは、へりく だって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うことだ。へりくだ らなければ、仕えることができない。又、主は「必ず自分の父の家 にいる」と言われた。両親は主がいる所を、違った場所に探して、 見つける事ができなかった。 「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまりま す」の主に、私たちもとどまる事が大切だ。

 

・・・・・・・・・・・ 神の子が、へりくだって両親に仕えられた。驚くべき事だが、主は 仕えられるためでなく、仕えるために来たと。主はへりくだったと ころにおられ、父の家におられる。そこに居ることが主とひとつで あり、平安の場所だ。