「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:24

信仰生活で、対人関係の悩みにしばしば直面する。そこで問題が生じた時に、こじらせてしまい、泥沼状態となってしまう。それは相手を責めて、相手を変えようとする時だ。相手は反発し、心を閉じて、ますます頑なになる。争いが根深くなるばかりだ。

 

相手を変えようとするが、相手が変わる事は無い。だいたい相手を裁くのは、自分の思い通りでないからだと言われている。相手がどうのより、自分の期待通りでない事に我慢ならない。どうすれば良いのか。相手を変えようとする事を止める事だ。相手を変えるのでなく、自分が変わろうとするなら、確実に問題解決へと向かう。

 

ある人が、不登校の子供をなだめたり、ある時は叱ったり、何とか登校させようとするが、どうにもならない。学校へも幾度も足を運び、担任とも話し合い、自分に出来る事はし尽くした。登校して欲しいが、だが何の変化もない。そんな時を経て、とうとう疲れ果ててしまい、もうギブアップだった。主のもとへ行き、心の内をことごとく祈った。失意、挫折感、疲労こんぱい、落胆、焦り、嘆き、何もかもを主に告げた。

 

その時、御霊に示された。行かせようとするのは、人にどう見られてるかが気になるからであり、結局、心の底に潜む自分のプラドだと。これでは子供のためでなく、自分のためではないか。心から悔い改めた。その時、重荷が取れて、思い煩いも消え、平安と喜びが満ちた。自分が変えられた。もう行こうと行くまいと良いと思えた。行かなくてもいいと、心から平安だった。心が解き放たれた。するとどうしたわけか、子供が登校し出したのだった。

 

・・・・・・・・・・・・普段は決して気づく事のない、心の底に潜み、横たわるもの、それを主はいろんな事態の中で、気づかせ、悔い改めに導いて下さる。どんどん自由にし、聖めて行って下さる。何と感謝なことだろう。一つも無駄はない。教えられている事を悟れるよう祈ろう。