「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、 隠れている私の罪をお赦しください」詩篇19:12  

ある人が、思春期の頃から、父親との長年の確執があった。仕事人間で、ほとんど家にはおらず、しかしワンマンで厳しく、上から抑えつけられて来た、気持ちを聞いてもらった事など一度もない。そんな父親を恨み、憎んでいた。父親が大嫌いだった。主を信じた後、その事が取り扱われた。

 

憎しみは、苦しみをもたらした。苦しくてたまらなかった。心が、どうにもならず、がんじがらめだ。まさに牢獄の中だった。常に囚われの身であり、父親が目の前にいようと、いまいと関係ない。楽しい時にも、ふっとよぎり、心は沈み暗くなった。まさに真っ暗な牢獄の中だ。余りにも苦しくて、もう一歩も進めず、主の御前に、この事を差し出し祈った。聖霊は心に示された。

 

今、うまく行かず、自分がこうなっているのは、すべて父親のせいだと思っている事。それで父親を恨み、赦せない思いでいる事。しかし、父親を責めていれば、自分を見なくて済む。そして父親がどうであれ、憎む事は、自分の問題であり、自分の罪である事を。それがわかった時、自分の罪を認め、悔い改めた。その時、涙が溢れ出た。

 

神が触れて下さった、恵みの涙だった。心が溶かされて行くのを感じた。神の赦しを実感し、あの苦しかった心がすう~っと穏やかになり、平安になった。そしてあの憎しみと苦しみが不思議に消えて行った。相手に関係なく、自分の感情、思いは自分の責任だ。それを認めて行く時、自由にされ、解放されて行く。御霊からの喜びを経験する。

 

--------------神が触れてくださるゆえに、人ではなく自分の罪を悔い改め、赦しを受け取る事ができる。混乱しやすく人しか見えない者だからこそ、隠れている私の罪を悟れ、お赦しくださいの日々の祈りが大切だ。