「悪魔は言った・・『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あ なたに差し上げましょう』」マタイ4:8

自分は「何のために」信仰しているのだろう。立ち止まって、よく考えてみる必要がある。もし信仰が、自分の願いを得るための「手段」なら、自分の欲しいものを手にしたなら、信仰は不要になる。又、願望を遂げるための手段なら、絶対に欲しいのなら、別に、他の手段でも良い事になる。

 

サタンは、「私を礼拝するなら、すべてを与えよう」と言った。あなたの欲しいものを何でも上げるよと。そう言われるなら誘惑に乗ってしまう。目的のものを得たいだけなら、誰がくれようと、構わない事になる。しかし主にとっては、御父を礼拝する事は、手段でなく「目的」だった。このところが肝心だ。

 

もし信仰が、より有益な人生とか、より高尚な生活、道徳的生活、人格者になること、自己実現のための手段だとするなら、神が自分の思い通りに、期待通りに動いてくれなかったら、遅かれ早かれ必ず失望する。神の愛を疑い、神から離れ去る。いつか神を捨てる。そこに自分にとって益が無く、得るものが無いのだから。

 

しかし、神を神として信じ、神を崇め、何を得ようと得まいと、神との交わりを目的として歩むなら、何があっても平安と喜びを失う事はない。状況は関係ない。あなたは「何のために」信仰しているだろう?何かを得るための手段だろうか。それともこの与えられた人生、あなたの神、主を礼拝して生きるためだろうか。

 

--------------目的のものを得るために祈るのではなく、神が聞いてくださっているから何でも祈るのであり、委ねまかせている神を神とし、賛美し、ひれ伏し拝む。神に愛されていることを知って歩む人生は何と幸いだろう。