「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にく れたので、私は食べたのです」創世記3:12

私たちの日常で、状況的に、様々な問題が起きる。目の前に起きている苦しい問題に、心は奪われ、右往左往する。何とかしなくては、対応策はと、あれこれ思い悩み、心痛み、思い煩いにおそわれる。とにかくどうにかしようと、立ち騒ぎ、ああでもない、こうでもない、あれやこれやと煩い考える。

 

そして、だいたいその場合、自分は被害者だと思っている。「何で、自分はこんなひどい待遇に会うのか」「この職場が悪かったのだ。違う職場であれば・・」「何で、あの人と出会ったのか。あの人のためにこんな苦しみに会っている」「何で、自分はこういう生い立ちなのか」、職場が、親が、周囲が、環境が・・悪いとしか見えない。

 

悪い態度を取る相手が悪い。自分を怒らせるような事を言ったから、自分は怒ったのであって、自分は悪くない。言い訳は幾らでも出て来て、どこまでも自分を正当化して行くので、罪が見えない。自分は正しいのだから、罪は無い。アダムとエバは罪を犯した後、アダムは自分のせいではない、エバが悪いと、エバは自分が悪いのでなく、蛇が悪いと、自分を正当化して行った。

 

肉に根深く巣くう自己正当化が、自分の内にないだろうか。肉は、罪を認めたくない。そのため、無意識にもはまって行ってしまう。御霊が気づかせて下さるように祈っていよう。罪を認め、赦しを受け取る時の、平安と喜びは何にも代えられない。

 

---------------言い訳は次々と出てくるが、自分の内に神の言葉よりサタンの言葉が好ましく、しっかり選んでいった罪がないだろうか。うやむやにしたいが、赦そうと声をかけてくださる神に応答しよう。