「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中か ら、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」 マルコ12:44 

1人の貧しいやもめが2レプタを献金した。僅かな額であったが、主はその事を大きく評価された。金持ちが多額の献金をしていた中で、そっと献げたこのやもめに目を留められた。それは彼女の生活費のすべてだった。主はそれを重く受け止められた。ここで言われている事は何なのだろう。やもめのように、全生活費を献げよと言うことなのか。

 

それが信仰的で、霊的だということなのだろうか。そうではなく、大事な事は、彼女の心の目が見えるところでなく、主に向いていたという事だ。目の前の生活や、物や、将来の事、将来の必要ではなく、ただただ主に向いていた。所有欲から自由にされて、自分のすべてを主に明け渡し、委ねきっていた。

 

「人が主に向くなら、おおいは取り除かれ」「主の御霊のあるところには自由がある」神と富に兼ね仕える事はできない。彼女の心は富にではなく、神にあり、神に自分自身と将来を任せた。投げ入れたのは、彼女の所有欲、自我、いのちそのものであり、神にすべてを明け渡したのだった。

 

それが彼女の信仰であった。 自分で自分を守ろうとせず、明日の必要は与えられると信じた。そして、人にどう見られるかもなく、自由であり、ただ主だけを意識していた。主はその心をしっかり受け止めて下さった。同様に主は私たちの献げものも、その心もしっかりと受け取って下さっている。主は、今日も私たちの心を見ておられる。

 

---------------経済的なことや人間関係、様々なことに心配りをしながら生きている。その中の一部を主にお任せして残りは自分で格闘していると示される。全てを主にお任せし支えられ、こころ広やかに歩みたい。