「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連 れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」 ヨハネ6:15

主は、5千人の給食の奇跡をされた。それを見た群衆は、主を王にかつぎ上げようとした。しかし、主は、大勢の群衆が主を信じると言い、後を追いかけ回しているのは、主ご自身を求めてではないと言われた。しるしを見て、そこに霊的な恵みを見て、この方こそ主キリストと信じて、ついて来たのでなく、パンが欲しくて、そして更なるパンで満たされたい。自分の願望が満たされたいがゆえに、ついて来ていると。

 

満腹とは、自分の欲望が満たされる事であり、自分の満足、自己実現だ。肉の喜び、肉の満足が欲しいばかりで、そこに主がまことの神である事や、永遠の恵みを見る事はない。主は求めよと言われる。そして祈りに答え、必要を満たして下さる。しかし、気をつけていないと、私たちの祈りは、ひたすら自分の欲望満足だけに向かってしまう。

 

欲望充足の手段となってしまう。 そしてそうであれば、欲望が叶えられず、思い通りにならない時に、遅かれ早かれ主のもとを去る。主は、そんな私たちをあわれみ、正しく導くために、時に、思い通りでない答えを与え、よく考えさせ、動機を探らせ、省みさせて下さる。

 

「ノー」の答えがあり、すぐに叶えられない祈りがある。その中で心を探り、取り扱い、御心に適った者へと成長させて下さる。思い通りにならない状況は大きな恵みだ。主に近づき、主のお心を尋ねよう。動機が探られ、更なる成長へと導かれる。

 

-----------自分視点でしか主を見られない時は、祈っても毎日が不安と不平でで仕方ないが、主はどういうお方で、主はどんなご計画を持って・・との見方に立つなら毎日は新しい発見の連続ではないだろうか。