「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、 悪い動機で願うからです」ヤコブ4:3

時に、自分にとって、強烈な願いであり、欲しいものがある。しかし、その自分が喉から手が出るほど欲しいものが、果たして本当に自分に必要なのかどうか。それを、神に祈り求める事ができるなら「欲望」の誘惑から守られる。解放される。欲望は際限がない。欲しいものと必要なものは違う。

 

単に自分の欲しいものを求めて行くなら、欲望のとりこになってしまう。今、どうしても欲しいものがあるなら、それが自分に必要なものかどうかを、神に祈ろう。そう祈るなら誘惑から守られ、サタンの足場を砕いてしまう。そして、もしそれがあなたに必要なものなら、神は必ず与えて下さる。

 

又、こんな御言葉がある。「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」絶対にどうしてもと、どこまでも願うなら、神はその欲望の願いに答えられるが、それによって、たましいはやせ衰えると。「彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた」結果だ。

 

欲望による願望を余りに向けるなら、神は、ある時、それを敢えて与えられる。しかし、それを手にして、心は虚しくすさんで行くことになる。罪の性質である、際限無い欲望から守られるために、今強く求めているものが、真に自分に必要かどうかを、今一度神に伺おう。すべてにおいて守られる。

 

-------------目の前に欲しい物があれば、ろくに祈りもせず手を出してしまう。そんな衝動買いの卑小な失敗からも、御心なら与えてくださいの祈りの大切さを教えられる。ノーの答えも感謝ですと思える備えともされる。