「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」 マタイ5:3

私たちは、自分は心貧しい事は貧しいが、そこまで貧しくないと思いたい。「貧しい」という言葉自体が良い響きでなく、どちらかと言うと悪い印象なので、何かひっかかり、認めたくない。しかし、内側をよく探るとどうだろう。突き詰めるなら、心底、他人に同情する事など出来るのだろうか。自分の事だけで一杯だ。歯痛で泣き叫んでいる時に、人の事など考えられないように。

 

又、人の喜びを、喜ぶ事ができない。ある人は入試に落ちて、合格した友人が羨ましく妬ましくて、どうにもならなかったと。又、ある人は入院中に、同じ病の人が退院して行くのが羨ましくてならず、自分は退院のめどすら立たず、祝福などできなかったと。幸せな人を見ると、なかなか共に喜べない。自分はと、自己憐憫に陥ってしまう。他人の事に真に関われない冷淡さがある。

 

普段考える事なく、突き詰める事もなく、あいまいに通過している。自分は良い人であり、愛が無いなどと認めたくない。そんなに酷い人間ではないと思いたい。だから、あえて見ないように、無意識にそうしているので、気づく事も無い。しかし、霊の成長は、必ず現状を見せられ、「認める」事から始まる。

 

冷淡で愛が無い、嫉妬深い、プライドの高い自分、破れ果てた真の自分の姿を見せられ、認める時に、御霊によって、キリストのかたちへと変えられて行く。自分がいかに貧しく惨めかを知る時に、新たに主に出会い、御霊の喜びを持つ者にされて行く。信仰生活はその歴史だ。低い所に水が流れるごとく、恵みは流れ、無い所に、神は溢れるまでに満たして下さる。自らの貧しさを知る者は、真に幸いだ。溢れる祝福にあずかる。

 

・・・・・・・・・・・色々な事が起こり、いかに自分が貧しいかを見せられる。だが何も無ければ、自分が貧しいと知る事もない。本当の自分を見せられる事は、主に在っては恵みであり、大きな祝福だ。そこでこそ十字架の意味を知り、愛されている事を体験して行く。