「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へり くだる者に恵みを与えられるからです」Ⅰペテロ5:5

中世は天動説だった。惑星の軌道が膨大に複雑で理解不能だった。コペルニクスが地動説を打ち立てた。天動説は、地球が中心で天体の動きを見ていた。だから理解不能だった。しかし、地動説は、地球は、太陽の周囲を回る小惑星だ。地球が宇宙の中心なのではない。そうすると、すっきりし説明がついた。

 

私たちの霊的生活はどうだろう。世界の中心が自分で、自分を中心に考えると、次々と悩みと問題にぶつかり、対人関係では問題を引き起こし、ギクシャクし、あちこちで頭をぶつける。自分が問題を引き起こしている。まさに地動説だ。自分中心に世界が回っていて、周囲を動かそうとする。そこにまさつが生じる。

 

そしてうまく行かないと、相手が悪いと信じて疑わない。あの人、この人さえいなければ、人生快適なのに。しかし、相手はいっさい関係なく、問題は自分であり、自分の問題だ。自分中心の思考パタンだ。相手のせいにしか見えないが、相手は関係ない。自分の心の状態の責任は自分にある。まず自分の問題だと認めよう。相手がどうであれ、反応しているのは自分であるからだ。

 

キリスト中心に据える時、見方が変わる。相手の非しか見えなかったのが、御霊の光に照らされて、自らの高ぶり、自己愛、利己心、嫉妬心、愛の無さが見えて来る。その時、主が取り扱われ、示しに従って行く時に、自由に自由にされて行く。解放されて、平安にされて行く。

 

・・・・・・・・・・・・・自分を中心に物事を見ていると、神が見えないし、自分の損得の判断しか無い。だが神視点に立つと、自分のメリットでなく、神の御心を考え、神の喜ばれる事は?と目が向いて行く。損になっても御心を行なおうとして行く。大変な変化だ。