「ところが、パロは息つく暇ができたのを見て、強情になり、彼ら の言うことを聞き入れなかった」出エジプト8:15

出エジプトの際に、民を救出するために、神は様々な奇跡を起こし、モーセが、そのつどパロに迫る。神の超自然のみわざにより、激しい苦痛が臨むと、パロは「私は罪を犯した」「私と私の民は悪者だ」「私の罪を赦してくれ」「私のために祈ってくれ」という、一見悔い改めのような言葉を発する。が、その災いがおさまり、息つく暇ができると、すぐに再び強情な姿に戻る。

 

これは、それらしき言葉を口にするが、心の底では思ってはいないという事だ。真の悔い改めなら、必ず実を結ぶ。主は「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」にしるしを行なわれる。しかしパロにとっては、様々なしるしが、主を知ることにはならず、脅しみたいなものであった。だからその脅しが無くなれば、再び強情で頑なになった。元に戻る。

 

私たちはどうだろう。もし高慢になっていたなら、神はへりくだるようにと、苦しみを送られる。これは神の愛であり、放っておかれる方が悲惨だ。しかし、その苦しみをパロのごとく単に脅しに取るなら、確かに痛いので悔い改め、反省し、神妙になるのだが、その苦しみが去ると、元に戻る。

 

実は自分が悪いなどとは思っていない。成長が無く古い自分のままで、何も変わらない。真の悔い改めに至らないので、実を結ぶ事がない。しかし、御霊に導かれた真の悔い改めは必ず実を結んで行く。砕かれた、悔いた心に、御霊は豊かな実を結ばせて下さる。

 

-------------自分にとって痛ければ反省し、そうでなければ自分の罪は見えて来ないだろうか。なかなか成長できない者だが、罪を見極めて、御霊に導かれた実となる悔い改めをさせていただきたい。