「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、 父が出て来て、いろいろとなだめてみた」ルカ15:28

ある時、取税人、罪人たちが主のもとに話を聞きに来た。そこにパリサイ人らが、主が罪人たちを受け入れ、食事を共にする事を非難した。そこで、3つの失われたものが見つかった喜びの話をされた。一匹の羊と一枚の銀貨と放蕩息子だ。

 

迷い羊、無くした銀貨、放蕩息子は、取税人や罪人であり、迷っていない羊、無くなっていない銀貨、兄息子がパリサイ人、律法学者だ。失われたものが見つかり大喜びしたと同時に、失われていないものも同じように愛されている。パリサイ人たちは自分たちは迷っていない、失われていない、放蕩していないと思っていた。

 

放蕩の弟が戻り、父親が大喜びで宴会している事に、兄は激怒した。自分は辛い目をして毎日労苦しているのに、どういう事か。弟は「あなたの息子」と他人であり、父に怒りが向く。しかし父は兄を見放さず、なだめて寄り添い話を聞く。自分も愛されている事が全くわからない。自分に子山羊一匹くれない、何もしてくれないと言うが、そんな事はない。 父親は「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」と言っている。これほどの深い愛で愛されている。

 

弟を迎え入れた父は、何かをしたからではなく、存在そのものを愛して下さっている。兄も同様であった。それが兄にはわからなかった。私たちも、時に兄息子になる時がある。父の無条件の愛のもとに帰り、安んじよう。

 

------------無条件の御父の愛をいつも自分のものとしていよう。いとも簡単に兄息子になり、全部自分でやっているのにと人の足りなさを裁く醜さに陥る。御父の近くにいよう。罪に気づかされまたやり直せる。