「イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、 彼らに言われた。『このことであなたがたはつまずくのか』」 ヨハネ6:61

信仰人生で、私たちがつまずくのは、どんな時だろう。よく考えると、「自分の」期待に合わない時ではないか。どこまでも「自分の」願いに、思いに、そぐわないゆえに、つまずいていないだろうか。自分に利害関係の無い事で、人はひどくつまずく事はない。

 

「自分の」気持ちや、願いを、相手が受け止めてくれない時、「自分の」思い通りにならない時に、つまずいたと思う。そして、そんな神なら離れてしまう。自分の願いが叶えられないなら、信心する意味がない。偶像ならそうだろう。当時の、主の周囲にいる人々は、主を現世的、政治的指導者、現世の王として、主を求めた。メシヤとして華々しく王位につく事を。

 

しかし、現実的にはどうか。王になるはずの主が、十字架にかかられるなどとは。到底受け入れられない。人々は「自分たちの」思い通りでない、主を捨て去った。自分の期待通りでない、その期待を裏切る主が腹立たしい。裏切られた気になる。私たちもどうだろう。信仰人生が自分の期待通りに行かない、思い通りでない、願いが叶えられない。その時につまずくだろうか。

 

その時の軸は「自分」だ。「自分の」気持ち、「自分の」思い。その軸を「神」に変えてみよう。「神の」御思いは? 「神の」ご計画は? 神はどう思っておられるのか。神は何をしようとされているのか。神を軸におき、その神に自分の心を沿わせ、明け渡して行く時に、今までの世界とは違って、神が見えて来る。

 

-------------パンを食べては喜びこの方こそ王と言う人々から主は退かれた。自分の基準で主を待ち望み喜んだり焦ったりで、どれ程主を悲しませているだろう。自分の中から出て主ご自信を待ち望む者でありたい。