「主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか」ミカ6:7

私たちは、自分が犯した罪が赦されるために、何か必要なのだろうか。ミカは、どこまで行えば受け入れてもらえるのかと言っている。何をもって御前に出たらよいのか。一歳の子牛を献げたらよいのか。いや、一頭でなく、数千の雄羊、数万の油が必要なのか。いや、それでも足らなくて、長子を献げなければならないのか。

 

罪意識が強くなる時に、何とかしようとするなら、子供を殺すまでに行くと言っている。これが「邪悪な良心」だ。良心に邪悪なものがあるのかと、不思議な気がするが、邪悪な良心とは、神を認めない心だ。神のして下さった事を認めない。

 

主の十字架により、罪と死が解決されている。すでに完了している。罪の赦しは成就されている。それを認めないで、それだけでは足らないので、何かをしなければと思う心だ。つまり、完全に赦されている事を信じない。赦されるはずが無いと思っている。無代価の完全な赦しを信じないので、行いを付け加えて受け取ろうとする。

 

それなら子供をいけにえにするところにまで行き着く。そうでなく、主の尊い犠牲により、無償で、すでにいっさいのかたが着けられている。完全に無罪放免だ。このプレゼントを、恵みを、感謝して受け取る事こそが、神の御心であり、喜ばれる事だ。その時、血の注ぎを受け、邪悪な良心がきよめられ、素直な心にされ、真心から神に近づける。

 

・・・・・・・・・・・・罪赦されるために、生まれつきの性質は、何かの行いをして認められようとする。根深い価値観がある。しかしすでに主の十字架で無代価で罪が赦される。考えられないほどの驚くばかりの恵みだ。今一度しっかり噛みしめて主に心からの感謝を献げよう。