「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った・・そのあとで すぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」使徒16:32

パウロは、アジアで御言葉を語る事を禁じられ、ビテニヤの方へ行こうとすると、それも止められた。そこで残る西の方面に向かうと、トロアスで「マケドニアに渡って、私たちを助けて」との幻により、御霊の導きを確信した。

 

マケドニヤに渡り、ピリピの町へ行った。祈り場へ行き、そこにいた女たちに宣教した。その後、占いの霊につかれた女奴隷から、悪霊を追い出した。すると、儲ける手段を失った主人たちに、訴えられ、捕らえられて、投獄されてしまった。

 

むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁された。御霊の示しに従ったのに、祈ったのに、問題に会い、苦しみに襲われる。こちらに落ち度は無く、ましてや宣教のために来たのに、投獄の身だ。一体どうなっているのか。これでは、どうにもならないではないか。しかし神の計画は着々と進行していた。

 

主を信じ、すべてを主に委ねていた彼らは、牢獄で不平一つなく、祈り、賛美した。それは囚人たちに大きな証しとなった。投獄により、結果的にそこの看守が救われ、何と全家族が救われたのだ。ピリピの教会の核となって行った。神に間違いは無い。

 

ちゃんと従ったのに、あんなに祈ったのに、どうしてこんな事に?との状況にあるだろうか。今は全体像が見えないが、神はご自身のご計画を、間違いなく進めておられる。信じていよう。続けて従うなら、必ず思いを超えた主のご計画が成し遂げられて行く。

 

・・・・・・・・・・・・・主のみ思いは、人の思いと異なり、主の道は、人の道より高い。目に見えるところは不可解であり、意味がわからずとも、主に間違いは無い。自らの思いとは異なっても、主に最善のご計画があることを見つめ、主を待ち望み、信仰を献げて行けるよう祈ろう。