「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自 分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」ルカ9:23

信仰者の生活は、信仰を持つ前と、どこが違うのだろう? 何が変わったのだろう。日曜日には教会へ行き、又、聖書を読んだり、祈ったりする事だろうか。それも変わったが、何かをする時に、その「動機」が変化したはずだ。以前は自分中心に動いていた。動機は、あくまでも自分の損得であった。

 

自分の利益になるか、損失になるかが判断基準であった。自分に得にならない事などする理由がない。損失になる事など、とんでもない。そんな事のために、時間も、労力も、富も使いたいなどと思わない。しかし、今、判断基準は自分の損得ではない。たとえ自分の損失になっても、犠牲を払ってでも、主に従おうとしている。

 

軸が自分から主に変わり、主の御心かどうかが判断基準だ。そして、自分の利益にならなくとも、主の御心を行なおうとしている。そして実際、行なう時、心に何にも代えられない平安と喜びを経験する。以前は、自分の欲望を遂げる事が幸せであり、喜びであり満足だった。そのために生きていた。しかし、その満足は束の間であり、又、心は渇いた。

 

そのため、あれがあれば、これがあればと、満たされるのではと、次々と目に見えるものを求めてさまよい歩く。しかし心の奥が満たされる事は決してない。真の喜びと心の平安は、自分を捨て、主の御心を行なってゆくところにある。その時、この世には決して無い、御霊の喜びがは与えられる。心底の喜びを味わえる。

 

----------大きな十字架は負えなくても、今日、目の前にくる出来事の中で負うべき十字架を負い、黙って主に従いたい。人のためにと走り回っていても、よくよく吟味すれば自分のためであったと思わされる。