「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリス トから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4

ある人の証しだ。小さい時から親は厳しく、頑張って頑張って生きて来た。何でも一生懸命に頑張る事により、家庭でも学校でも評価を得て来た。そして「良い子」として、周囲に認められたくて必死だった。人に認められる事が、自信となった。それが信仰者となった後も、気づかないまま全く同じ価値観で歩んでいた。

 

「良い子」が、「良いクリスチャン」に取って代わっただけで、一生懸命に自分が頑張って、神と人の賞賛を得たい、評価を得て、認められたいと必死だった。とにかく自分に付加価値をつけて、自信を保とうとした。しかし比較の上に立っているわけで、自分より優る人など、幾らでも出て来る。その途端、今度は劣等感に落ち込んだ。

 

又、どんなに頑張っても、律法を守る事は不可能だ。心の中では、自分はだめだ、だめだと、いつも喜びも平安も無かった。それらの原因が、自分の力で歩んでいる事にあると、気づかなかった。出来ない自分を見せられて行った。頑張るが出来ない。すると、もっと頑張ろうとする。しかし、律法を守る事は不可能だ。

 

色々な事を通して砕かれ、小さい頃からの自信を砕かれた。そして、結果的にそれが大きな幸いであり、自分の弱さを認める事ができた。弱いままで、愛され受け入れられている事を、生まれて初めて経験し、安堵と平安が心に広がった。人にも弱音を吐けるようになった。

 

信仰生活がつらく苦しいものでなく、生き生きとし、楽しく、喜びになった。私たちも律法によって認められようとしている事に、気づきが、与えられ、恵みへと移されて行く。

 

---------------自分を見れば自信もなく足りない所だらけだ。だから頑張っていれば少し安心する。そういう私が愛されている。主が私のために死なれ、無償で今も溢れるほどの恵みを注ぎ続けてくださっている。