「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認め られるために、よみがえらされたからです」ローマ4:25  

ある女性が結婚して、新生活が始まった。が、いざ共に生活となると、自分が思っていた夫とは全く違う事がわかった。価値観が余りにも違う事に驚かされた。考え方の違い、好みの違い、習慣の違い、一つ一つにギクシャクした。この結婚は間違っていたのか。悩み、悶々状態の中にいたが、夫は忙しく、早朝出勤深夜帰宅で、語り合う時間など無かった。

 

イライラが募り、不満で一杯になり、どうしても思い通りでない相手を責めてしまう。しかし、自分の非は認めたくない。そんな強い自我に苦しみ、又、そんな自分に自己嫌悪にも陥る。平安もなく、主の御前に赦しを求めるが、そのしりから相手を裁く思いが噴き出す。

 

苦しみの日々を経て、疲れ果ててしまい、もう行き詰まってしまった。夫とは喧嘩が絶えず、結婚生活を続ける事に限界を感じるまでに、追い詰められた。心底の叫びだった。「主よ、助けて下さい。。自分自身を、もうどうにもできません。この結婚を明け渡しますから導いて下さい」ギブアップした。その時初めて、今まで理解していると思っていた主の十字架が、真に自分の事として迫った。

 

罪しか犯す事ができない自分だからこそ、十字架がある事がわかり、心底からの悔い改めが与えられ、今まで味わった事のない平安と喜びに満たされた。ずっと自分で、自分の力で、何とかしようとして、もがいていた事に気づかされた。どん底こそが、実は最大の恵みの場所だった。

 

・・・・・・・・・・・・・どうしても生まれつきの価値観が根深くある。自分で何とかしようとして、もがき、苦闘し、力尽きる。疲れ果てる。主に明け渡す時に、真の平安を経験する。自分の力でなく、御霊の力によって出来なかった事が出来るようにされる。栄光が主に帰される。