「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』」 ヨハネ20:28

主が十字架で死なれ、葬られた後、弟子たちは家に隠れていた。その家に、よみがえりの主が来て、ご自身を現された。「平安があなたがたにあるように」と。「弟子たちは、主を見て喜んだ」。主を見て、どんなに興奮し、嬉しかった事だろう。平安と喜びに満ち溢れた。しかし、トマスだけが、その場にいなかった。

 

「自分だけがなぜ?」「自分のいない時に?」自分が不在だったわけだが、自分だけが会えなかった事に、不満だったようだ。「私たちは主を見た」と喜ぶ弟子たちに「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」と言った。

 

そして八日後、トマスが一緒にいる、弟子たちの部屋に、主は再びご自身を現された。そのトマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」と、トマスが言ったそのままを言われた。トマスの「決して信じない」に、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と応答された。

 

トマスの心の内の、何もかもをご存じである事に彼は驚き、受け入れ、受け止めて下さっている主の愛に触れた。自分で見なければ、決して信じないと言った、そんな自分のために、個人的に向き合って下さった。その主は、トマスのために、現れて下さったかの状況だ。主の愛に、彼は、指を釘後やわきに差し入れずに、「私の」主、「私の」神と、最高の信仰告白をした。

 

----------------「私の主」との告白に学ばされる。皆と一緒にいればいつも主は近く思えても一人になればどうだろう。信仰は常に個人的で、主と私の深く豊な関わりだ。皆の主であると同時に私の主、私の神だ。