「主は、エリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子の うちに返り、その子は生き返った。そこでエリヤは・・その子の母 親に渡した」Ⅰ列王17:22

エリヤは、大飢饉の中、主に示されてツァレファテの一人の女性を訪ねた。その女性は、夫が亡くなり子供と極貧生活をし、ひと握りの粉と少しの油だけがあり、それで最後の食事をし、死のうとしていた。悲惨な状況であった。そこに、突然エリヤが現れ、非常識な、無茶な要求をした。まず、「私のためにパン菓子を作るように」と。

 

そうするなら、飢饉が終わるまで、かめの粉は尽きず、そのつぼの油は無くならないと。その瀬戸際の状況の中で、女性はエリヤの言葉の通りにした。すると不思議が起きて、飢饉の間中、粉と油は尽きず、息子に食べさせる事ができ、自分も養われた。飢饉のまっただ中で、神により奇跡をもって養われた。ところがその後、息子が重病に陥り、死んでしまった。せっかく生かされた命がなぜ?

 

しかし、エリヤはその息子が生き返るように、主に祈り、願った。主は、エリヤの願いを聞き届けられた。その息子は生き返った。その生き返った息子を、彼女に返した時に、彼女は、エリヤが神の人であり、エリヤの口にある主の言葉が真実であることを、今、知ったと言った。それ以前は、まだよくわかっていなかったが、息子の死を通して、神の言葉が真実であると身をもって知ったのだ。

 

彼女の内で、信仰が確かなものとされた。大きな試練であったが、主と主の言葉が真実である事を、真に知る素晴らしい恵みと祝福とされた。私たちも、主からの苦しく厳しい試みがある。しかしその中でこそ、その中だからこそ、必ず「主の言葉が真実であることを知った」と言えるようにされる。主を新たに知る恵みにあずかれる。

 

-------------試練は神によるテストのようだ。せっかく飢饉から生かされた者をなぜここで取られるのかと不思議な箇所だが、同じように私たちにも一人一人ぴったりの試みを与えられる。求める者に神は諦めず、生涯かけて成長させてくださる。