「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」ルカ11:10

祈りは学校だと言われている。最初は、「あれを下さい、これを下さい」「主よ、あっちに行って下さい、こっちに来て下さい」式祈りだ。受験合格、商売繁盛、家内安全、無病息災・・自分の願望、自分に都合良いものを求める。無いものを満たしてもらい、御利益を求める。自分が安心するためだ。

 

しかし、信仰の初心者の頃は、それらにも答えて下さる事を経験する。振り返ると、よくわかっていなかった祈りにも答えられていた。最初は、主との関係が変わっただけで、後は何も変わらず、今までの根深い価値観があるので、そうしか祈れない。それを主はよくご存じで、とにかく祈りによって「主に向く」ことを教え、体験させて下さった。主に向く事が大切だと。

 

そして、段々と主との交わりが深められて行くと、幾ら祈っても聞かれない祈りに、気づいて行く。答えられていないのでなく、答えられている。「ノー」が答えなのだ。何でもかんでも、欲しいものを与えられるのでなく、必要なものを与えられる事を学ぶ。今、思うと、必要なものは必ず与えられて来た事を知る。

 

そして、段々と、自分の思いはあるが、主のお心はどうか、何を主は喜ばれるのか、主の御心に思いが至る。思考パタンが変えられて行く。主の御心を求めて行く。御心を求め、約束を与えられた時に、それを信じて行く「信仰」を求めるようになる。とにかく祈りによって、主に向いて行こう。主は、祈りを少しずつ〃教えながら、成長させて下さる。

 

---------------主を信じた時、救われた喜びと同時に祈ることによって大きな力を得たような勘違いの喜びも覚えた。何と傲慢なことだろう。叩き続けたり、明け渡したりしながら主に整えられる祈りの時を喜びたい。