「しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、 サマリヤ人はイエスを受け入れなかった」ルカ9:53

よくドラマに勧善懲悪が出て来るが、正義のヒーローに悪人が懲らしめられると、見ているほうは、すっきりする。気持ちが良い。主がエルサレムに向かおうと、十字架の決意を定められ、御顔をまっすぐに向けられた。サマリヤを通過するが、宿等のために使いを先に遣わし準備させられた。

 

しかしサマリヤでは、主を受け入れなかった。協力もしなかった。その時、弟子たちが「私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。敵対する者たちは裁かれてしかるべきだと。しかし、主は彼らを戒められた。人の思いと神の思いには大きなへだたりがある。

 

主がエルサレムへ向かわれるのは、多くの苦しみを受け、十字架にかかるためだ。神のあり方を捨てられ、ご自分を無にし、仕えられ、自分を卑しくし、すべての罪を身に引き受け、贖いを成し遂げるため、御父に徹底して従われるためだ。しかし、弟子たちにはわからず、理解できず、その前には、この中で誰が一番偉いかと議論していた。

 

しかし主は一番小さな者が一番偉いと諭された。主がまっすぐ御顔をエルサレムに向けられたように、私たちの進む道も、十字架の道だ。自分を捨て、自分の思いを通すのでなく、主の御心に歩む道だ。しかしその時、主とひとつだ。心底の平安がそこにある。

 

---------------私たちは目の前のことに反応し思いは自然にネガティブに流される。自分を捨てるのはとても不自由に思えるが、一瞬、一瞬の怒りや恐れから祈っていこう。主と一つ心になることで本当に自由にされる。