「もし、私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進 もうではありませんか」ガラテヤ5:25  

私たちは、主に従って行きたいと思う。しかし、自分の力で、主に従おうとすると、怒りが湧く事態に出くわすと「怒ってはいけない」と、怒りをぐっと抑え込む。又、相手の態度にイライラすると、「忍耐しなければ」と、ぐっと我慢する。あちらでも、こちらでも、我慢を重ねる。

 

しかし、無くなってはおらず、内側に抑え込んでいるだけなので、許容量オーバーになると、必ず切れて爆発する。定期的に爆発しては、それまでの証しが台無しになる。経験あるだろうか。我慢する事は、抑え込むだけなので、それが溜まると大噴火する。

 

主に従うとは、押し殺し、抑え込み、我慢する事ではない。それなら、外側を懸命に取り繕うだけになる。クリスチャンである事は、フラストレーションのかたまりになってしまう。そうではなく、歯を食いしばって頑張り、眉間にしわを寄せて我慢するのでなく、「我慢できません」「忍耐できません」「腹が立ってどうにもなりません」と、主に心の内をありのまま告げ、主に受け止められ、主から力を受けて、歩む生活だ。

 

主によって変えられて行く。まず、自分で何とかしようとせずに、自分の心の内を、主に打ち明けよう。主は喜んで受け止めて下さる。主にことごとく告げて、御声に耳を傾けよう。主のみ思いを伝えて下さる。その御声に従おう。出来ないと表明しているので、必ず御霊の助けが臨む。

 

・・・・・・・・・・・・気に入らない事が起きた時、内に抑え込むか、相手を攻撃して行くかのどちらかになる。しかし主の御心は、まず主に呼ばわることだ。主に向いて「助けて下さい」と。これが肉の方へ行く事から守られる。御霊に助けられ、御心の対応へと導かれる。