「みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その 他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結 びません」マルコ4:19

種まきのたとえで、ある種はいばらの地に落ちた。道ばたに落ちた種は、地が固く、種をはじき返してしまい、植わることがなかった。その種は、サタンが奪い去ってしまった。

 

土の薄い岩地の種は、薄い土があり、芽を出した。が、下へ下へ根ざそうとすると、岩にぶつかり根ざせない。岩は自我だ。自我を砕いて従おうとしないなら、試練が来た時に枯れてしまった。 それに引き替え、いばらの中に落ちた種は、一応芽が出て伸びた。この人は主を受け入れ、御言葉に教えられ歩んでいた。しかし、同時にいばらも伸びて来て、その成長が阻まれてしまった。そのいばらとは、世の心づかい、富の惑わし、色々な欲望だ。それらが心に巣くい、御言葉をふさいでしまったと。

 

御言葉に従って歩み始めたが、実を結ぶまでに至らなかった。その地に、元からいばらもあり、成長と共にいばらも出て来た。誰しも、思い煩いや、富の誘惑や、様々な肉の欲望がある。富自体、楽しみ自体が悪いのではない。富も、楽しみも神が与えて下さるものだ。「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」だ。

 

しかし、神以上に執着してしまう心が問題だ。神よりも、自分の心配な事柄、富、快楽に思いが奪われる時、実を結ぶことができない。私たちの優先順位はどうだろう。神よりも執着するものがあると、御言葉をふさぎ、結実できないと。枯れてしまうので要注意だ。自らの、心の大切なものは何だろう。それぞれが正しい位置に置かれる時、平安と喜び持って生きて行ける。

 

-------------何故ストレートに御言葉に従えないのだろう。御言葉を受けて決心してもあっという間に取り越し苦労が襲う。いのちの種をふさぐ、いばらの実態は何か、見過ごさずきちんと向き合ってみよう。