「エリは言った。『その方は主だ。主がみこころにかなうことをな さいますように』」Ⅰサムエル3:18

主の御声がサムエルに臨んだ。が、サムエルにはそれが主からの御声であることがわからなかった。それで、サムエルは、エリに呼ばれたと思い、何度もやって来た。エリは、そんなサムエルに、主が語っておられると悟った。そこで、もしまた呼ばれたら、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と言うように教えた。

 

そして再度主は「サムエル。サムエル」と呼ばれた。エリに言われた通りに応答すると、主は、エリの家に裁きが下されるという厳粛な御心を明らかにされた。サムエルが、呼びかける声が主だとわかった時に、御心が示された。それをエリに言うのを恐れたが、エリに促され、そのままを伝えた。

 

主に聞いて行く時、語られる内容は、時に厳しい。嬉しい事ではないかも知れず、都合良い事ばかりではない。しかし避けずに受け止めて行く時、主の御名が崇められ、主の御心が成し遂げられて行く。

 

主に聞くのではなく、自分で考え、自分で決めてしまってないだろうか。それなら主の御心でなく、自分の思いの道を歩んでしまう。又、「主よお話下さい。しもべは聞きます」でなく、「主よお聞き下さい。しもべは語ります」一辺倒になっていないか。まず聞こうとする態度が大切だ。

 

デボーションから、礼拝から、学びから、書物から、交わりから、あらゆる所を通して、主はサムエルを呼ばれたように、私たちの名を呼び、御心を示そうと語りかけて下さる。

 

・・・・・・・・・・・・サムエルは、エリの家の裁きという、厳しい主の言葉を、主に従いエリに告げた。「主よお話し下さい。しもべは聞きます」は、聞いた御言葉にお従いしますとの態度だ。どうであれ従おうとの姿勢があるからこそ、語られている御言葉が悟れて、受け取ることができる。