「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要で あることを知っておられます」マタイ6:32

「明日のための心配無用」と言っている。これは将来に備えたり、計画したりするなという事ではない。雨の日のための準備は大切だ。しかし不安や思い煩いは全く必要無いと。私たちの心配は、「もし~」から来ていないだろうか。もし、ああなったら、こうなったら、「もし病気になったら」「もし失業したら」「もし経済的に困窮したら」幾つもの現実ではない亡霊の「もし~」で思い煩い、恐れている。

 

しかし「空の鳥を見よ、野の花を見よ」と。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納める事もしない。だが見事に養われている。野のゆりは、働きも紡ぎもしない。しかし綺麗に装われている。ましてや、私たちを天の父が養われない事があろうか。天の父は、あなたの必要を知っていると。何と平安な事だろう。今、目の前に思い煩いがあるだろうか。

 

仕事の問題や、対人関係の悩み・・なぜ、人は思い煩うのだろう。自分の思い込みによっていないか。明日はこうなり、将来はこのようになり・・と勝手に思い込んでしまう。ネガティブに、悪い方に考え、ああでもない、こうでもないと、心が分割、分裂してしまう。思い煩いとは心が分裂する事だ。分裂状態から、心が定まる事が必要だ。それが「神第一」だ。

 

主を第一に求め、そこに心を定め、自分を主に委ねて行く時、あれやこれやの思い煩いから守られる。そして「そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」神も、生活の必要も、どちらも与えられる。

 

------------まだ見えていないものは不安で怖い。だから心に主を据えてネガティブに流される「もし~」を信仰に置き換えよう。主は心を配ってくださる。今日も明日もだ。心を定めよう。