「 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、その エジプト人の主人の家にいた」創世記39:2

ヤコブの偏愛で育ったヨセフは、一人だけ綺麗な服を着て、また、兄たちの悪い噂を父親に告げ口していた。周囲がどういう気持ちになるかに、考えが及ばない。そのヨセフは、兄たちの妬みと憎しみから隊商に売られ、異国の地へ連れて行かれた。家族を離れて独り、どんなに不安と孤独と寂しさの中にいただろう。

 

しかしそれは神からの訓練となり、練られて造り上げられて行く。起こる出来事に神を意識し、神を見ていたことだろう。売られた先で主人の厚意を受け、信頼を得る。しかしその妻の誘惑に、その場を逃げ去る。その時も「神に罪を犯すことができましょうか」と、神の前に生きていた。

 

無実の罪で投獄され、奴隷よりも更に悪い囚人になり下がってしまった。しかしそこでも、「主はヨセフと共におられ」と、そこに神を認め、神の前に生活して行った。様々な厳しい訓練を経て、神は最終的にヨセフを総理大臣にされた。そして飢饉の中の、ヤコブ一族を救う事になる。神の主権と支配を認める時、すべての状況は神から来ている。

 

自分にとってつらい事、苦しい事が起きた時も、単に物理的な状況でなく、そこに神を見て行く時に、そこで神に出会って行く。神には深い考えがあり、ご計画がある事を信じて行く。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」状況に主を認める時、「そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」。主は平安へと導いて下さる。

 

-------------全てが主のご計画と摂理のうちに置かれているという事は、全てが自分だけの問題ではなと安心して、そこで力も知恵も求めていけばよい、この当たり前の事がすぐに飛んでしまう。主は生涯を通しくり返し整えてくださる。