「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱って おられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょう か」ヘブル12:7    

信仰人生に、様々な問題が起きる。問題や悩みは、誰しも避けたいものだ。できるだけ、苦しい目、痛い目には会いたくない。できれば、避けて通りたい。そして出来る限り順境であって欲しい。平穏無事な日々が、私たちの心からの望みだ。

 

しかし、御言葉はそう言わない。正反対のことを言う。「苦しみに会う前には、過ちを犯したが、しかし今は、御言葉を守る」と。そして「苦しみに会ったことは、幸せだった。私はそれであなたのおきてを学んだ」と。一見反対で、苦しみに会うと、過ちを犯すように思う。だから平穏無事でいたい。

 

しかし苦しみに会う前は、過ちを犯したと言っている。つまり、苦しみを通ったからこそ、過ちから守られ、御言葉を守る者とされいると。そして、苦しみに会った事が幸せだったと言っている。私たちは苦しみに会う事は、不幸だと思っている。だが正反対だ。

 

ある人が若い時に共産圏宣教で、捕らえられてしまい、死も覚悟した。結果的に無事に帰れたが、その時に霊的に何の備えもなく、自分はこれまで何の訓練も鍛錬もいっさい受けた事が無い事に気づかされた。この事により、後の信仰人生の幾多の訓練を受け止める事ができるようにされた。試練は決して嬉しくはないが、しかし「これによって訓練された人々に」必ず実を結ばせる。

 

・・・・・・・・・・・・心の本音の願いは、とにかく問題の無い事、平穏無事だろうか。本音の価値観は、問題の無い事が善、だろうか。それなら世の宗教と同じだ。苦しみは嫌だが、御言葉によると試練は、品性を培ってくれる善いものだ。受け止められるよう祈ろう。