「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」 ピリピ4:4 

ラッキーな事、ハピーな事、都合の良い事は、誰でもうれしい。受験合格、昇進、大豊作、商売繁盛・・信仰が無くとも、誰でも喜べる。だがハバククは、いちじくの木が花を咲かせず、ぶどうの木も、オリーブの木も実が無く、畑は何の収穫も無い。完全な不作だ。羊も牛も絶えてしまった。環境は、どうしようも無い絶望状態であった。

 

その中でも喜んだ。失望落胆、嘆き、無気力になりそうなほどの状況の中で、なぜ喜べたのか。「状況にあって」でなく、「主にあって」喜んだからだ。ある人が、聖書を読む時に「喜べ」との御言葉が心に迫った。「主にあって喜びなさい」と。読む度に、何度も語りかけられた。

 

しかし状況を見るなら、「何で喜べるのか?」「これのどこが喜びなのか?」の状態だった。体調を崩し、職を辞し、回復途上で、仕事もしていない。しかしそんな時、状況と自分ばかりを見て、主からの語りかけを、拒否している事に気づかされた。状況にあって喜べでなく、主にあって喜べと言っている。

 

初めて、「はい、喜びます」と受け取ろうと思った。その時、心が不思議に平安にされた。主に視点を持って行こう。主はすべての事をあい働かせて益とされる。災いは一つも無いと言われる。平安と将来と希望のためのものであると。そして主に行き当たりバッタリは無く、一人一人に計画を持っておられる。

 

そして、独り子を与えて下さるほどに愛して下さっている。さじ加減ピッタリの訓練により、砕き、成長させて下さる。そんな主に絶えず目を留め、愛されている。だからいつも主にあって喜ぶ事ができる。

 

・・・・・・・・・・・「主にあって」喜びなさいと言われている。しばしば状況にしか目が行かない。恐れ、不満や愚痴で一杯いになる。喜びどころではない。しかし喜べる状況だから喜べとは言っていない。主を見つめ、御言葉を握り、信仰により、従えるよう助けを求めよう。