「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だ れもいないのか」ルカ17:18 

癒やされた十人のらい病人が出て来る。当時らい病は、不治の病で、人々から隔離され、歩く時は「汚れた者です」と唱えなければならなかった。社会からはのけ者にされ、何の希望もなく、絶望的な人生だったろう。主がらい病をいやされた噂を耳にして、彼らは主にすがった。らい病人は、人前に出られない。彼らは、遠く離れた所から声を張り上げて「あわれんで下さい」と主に求めた。

 

遠くから力の限りの大声で、必死に願った。答えてもらえない相手なら、求めはしない。その切なる求めに、主は答え「行きなさい。自分を祭司に見せなさい」と。癒やしを判断をするのは祭司だった。しかしその時は、まだ治っていない。らい病のままだ。らい病のままで、言われた通りに、祭司のもとへ出発する。すると主の言葉を信じて、行動した時に、途中でらい病が癒やされた。

 

普通なら、癒やされてから、祭司のもとへ行くが、彼らはみ言葉を受け取るや、出かけた。これは彼らの信仰だ。この信仰に答えられて、途中できよめられた。そして十人の内、一人の異邦人だけが、主に感謝するために戻って来た。九人はユダヤ人だ。癒やしが叶えば、本音のところもう主に用はなかった。癒やしだけが目的だった。

 

それを得るや、大喜びで、主のもとを去った。しかしサマリヤ人は、主のもとに戻り、み前にひれ伏した。その時、癒やし主との関係に立ち返ることができた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです」この信仰が彼を救った。感謝する時、主をあがめることになる。

 

----------病が癒やされればそれは良いが、その途中に主を認めて感謝していける人生こそ幸いだ。結果が出ていない途中であっても主は共にいてくださっている。迷いや苦しみの中でもそこに立っていられる。