「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげ が与えられました」Ⅱコリント2:8    

パウロは、とげが与えられていた。とげは身体を刺し、激しい苦痛を与える。どんなに苦しみであったろう。取り去られるように、真剣に求めた。これさえ無ければ、もっと主のために働けるのに、心底から徹底的に祈った。しかし祈りの答えは「ノー」だった。主は、とげを取らないと。

 

なぜなら、主の恵みは十分であり、取るよりも、そのままの方が、更に主の栄光が現わされると。自分ではどうにもならない「弱さ」の中にこそ、主の力が完全に現れるのだからと。神の力は「弱さ」の中に、力強く働くと。あなたにも、弱さが与えられているだろうか。

 

「この事さえなければ、私の人生どんなにスムーズだろう」「こうでなければ、私は幸せだったのに」「この嫌な人さえいなければ、こんなに苦しまずとも済んだのに」、侮辱、迫害、困難に、何度も「この事を、あの事を取り去って下さい」と祈る。状況を変えて欲しいと。しかし取り去られない。苦痛でたまらない、その中で、パウロは切なる祈りをささげた。

 

とげが与えられる時には、まず祈ろう。御心なら取り去られ、御心ならそのまま置かれる。しかしその置かれたままの中で、神の力と栄光を現される。強くなるのでなく、弱さの中に神のわざは現れる。その弱さを無視したり、隠したり、無いものにするのでなく、受け入れる時、キリストの力におおわれる。そして強ければ決して知ることのできない、主の恵みを知る。

 

---------いつか取り去られると祈り、また格闘するがどうして逃れられないものに直面する。しっかりと受け取るものであったなら、静かに受け入れられるよう祈りたい。