「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる ことができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」 ピリピ2:6

私たちは、主によって罪が赦されたが、まだ肉の性質があり、主に拠り頼まなければ、すぐに罪を犯してしまう。罪赦されているが、罪を犯さなくなるわけではない。私たちの犯す罪の内、最たるものは何だろう。ある人は、その罪を私たちが他人の中に見つけるなら、非常なる嫌悪感を持つが、その同じ罪が自分の中にあると気づく人はほとんどないと言う。

 

その罪とは、高ぶり、プライドだ。「私は天に上ろう。密雲の頂きに上り、いと高き方のようになろう」との、明けの明星が天から落ちたのは、この高ぶりだった。高慢はサタンの最たる特徴だ。アダムとエバが犯した罪も「あなたがたは神のようになり」という高慢に誘惑されてだった。サタンから来る高慢は、常に「私」を意識させる。

 

「私」「私」「私」だ。私はどう見られているか、私は評価されているか、私は認められていない、私が一番寂しい・・、誰も私をわかってくれない・・「私」「私」だけを意識させるようにする。職場でも、家庭でも、教会でも、「私」が認められないと気がすまない。「私」はこんなに一生懸命にしているのに・・。

 

自己憐憫、自己主張、自己顕示だ。主と主の愛はその対極にある。主は自分を卑しくし、何もかも捨てて、十字架にまで従われた。自己中心な、自分の惨めな状態を知る人は、無力を認める。そしてへりくだって、主の十字架によって、神の愛によってのみ、今、生かされている事を知る。その人は、必ず神を愛して行く。

 

----------プライドが傷つくと痛い。そして気づかなかったプライドに気づく。言い訳で取り繕いたくなる自我は、主の十字架によってもう解放されていると覚えたい。神の御子がご自分を無にしてくださったからだ。