「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとと もに生きることにもなる、と信じます」ローマ6:8 

ローマ7章を例えると、完璧主義者の夫がいて、毎日、家中を点検し、ほこりやゴミをチェックする。料理は毎回まずいと言い、料理の仕方をあれこれ指図する。行動の一つ一つにもチェックが入り、すべてにおいてダメ出しだ。何をしても夫を満足させる事はできない。

 

悩んで、落ち込んで、ノイローゼになりそうだ。こんな夫と別れたいが、不可能だ。これ以上自分はやって行けない。夫が死ねばよいが、それもあり得ない。どうすればよいのか。この夫が律法で、妻が私だ。要求ばかりされて、責められて、しかし、求め通りに行う事はできない。苦しくてたまらない。

 

律法が死ぬ事はあり得ず、解決の道は、妻が死ぬ事だ。死により契約から解き放たれる。これがキリストがして下さった事で、私はキリストが十字架上で死なれた時に、一緒に死んだ。そのため律法に対して死んだ。そして、もし親切な愛深い夫ならどうだろう。 指図し、命令するだけでなく、掃除や料理を一緒にしてくれて、助言と共に、出来ない事を一つ一つ実際に助けてくれ、共に負ってくれたらどうだろう。

 

そんな夫なら妻は自発的に自由意志で愛をもって従いたいと思う。これが十字架で死なれたキリストと共に死に、よみがえられたキリストと共に生きることだ。

 

--------主と共に生まれた新しい命にあって生きていく。何度も繰り返し覚えたい。律法に迫られてするのは、それがどれ程良いことでも自分のためではないのか。そこから解放された。主のために生きよう。