庭の木々や作物を育てる人は、せん定の大切さを知っている。時に刈り込みをするなら、豊かな実を結ぶ事になる。枝や葉に余分な養分が流れるのを防ぐので、その分が実に行き、立派な、たわわな実がなる。同様に信仰生活においても、主は刈り込みをされる。出っぱっている所を切り取られる。
それはプライドや虚栄心やわがままかも知れない。はさみで刈り込むので、必ず痛い。苦痛を伴う。プライドが強ければ、プライドが傷つく事態が起きる。それはあなたをへりくだらせるためだ。柔和にするためであり、主が刈り込んでおられる。目の前にある痛い事は、もっともっと豊かな実を結ばせるための、主からの刈り込みだ。
自分がどこに反応し、どの部分が痛いのか。そこが刈り込みの必要な場所だ。もし刈り込みが無ければ、高慢で自己中心のままだ。思い通りにならなければ周囲に当たり、又落ち込むだけの歩みを繰り返す。又、進もうとしていた進路が閉ざされる事がある。
自分はその道が最善と思い、そこに進みたいのに閉ざされる。それも刈り込みだ。開かれた道から行けば良い。そして、閉ざされた事が、後に、最善のご計画であった事がわかる。別の道が備えられていて、必ず豊かな実を結ぶ事になる。刈り込みが感謝だったと、後の日に必ず思える。
-----------出会っている困難はもっと多くの実を結ぶための主からの刈り込みと受け取りたい。なぜ、どうしてと混乱するより、根はしっかり主にとどまっているのだからと安心して主から新しい養分を受けよう。