「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするようにと命じて います。ところで、あなたは何と言われますか」ヨハネ8:5 

主を陥れようと、律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕らえられた女性を連れて来た。律法では石打ち刑だが、あなたはどうするのかと。罪人の友である主、その愛とあわれみはどうなるのかと。主を窮地に陥れる算段だったが、主は第三の答えをされた。「あなたがたの内で、罪のない者が石を投げよ」と。

 

姦淫の女を断罪した人々は、その投げた石が、ブーメランのように自分に返って来た。「罪の無い者が投げよ」と言われた時、主のその言葉で自らの姿が映し出された。彼らは罪がわかったから、一人一人とその場を去った。律法学者やパリサイ人は、自分の姿を見た。しかし彼らは主の前から逃げたのだ。

 

だが、姦淫の女性は、逃げずにそのままそこにいた。そして主のもとにとどまったその女性は、主から全き赦しを受けた。私たちはどうだろう。日ごとに、御言葉に向かう時、自らのありのままの姿が映し出される。鏡に映るように。メッセージを通して、自分の罪が指し示される。

 

自分の醜い、汚れた、自我にまみれた姿を見るのは痛い。心刺される。プライドが傷つき、認めたくない。心の引き出しに押し込めたいし、ふたをして置きたい。私たちも逃げるだろうか。しかし逃げないでとどまった女のように、映し出された本当の自分を認めよう。その時に、造り変えられて行く。何より主の赦しと、深い愛を知って行く。

 

-----------主のもとに留まったから主から赦しの言葉を受け取る事ができた。自分の醜さ罪を覚えながら立ち去ってしまえば永遠に後ろめたいままだ。主の前に罪を認めることは赦しを受けとる道だ。