「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリ ストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4

御言葉に、従おうとする時に、必ずあらがって来るものがある。この世の価値観や、習慣、肉の思いだ。一見、非常に妥当に思える。今まで叱咤激励の価値観の中で生きて来たので、自分の力で頑張るのが良い事、善、美徳だ。

 

今までも真面目に生きて来たが、救われてまことの神を知るや、更に真面目に、更に忠実でなければと、信仰生活とは厳しい修業のように思ってしまう。律法に従うのは、苦しいが、しかし苦しみは美徳、当然、むしろ苦しいと安心感があったりする。修業している気になれる。特に日本人の気質に合致する。

 

これらは世の価値観から来ている。しかし、真理と正反対の方向に向かっている。それは神から出ていない。ここでは割礼の事で問題となっている。ユダヤ人の慣習である割礼を受け入れて、問題を起こさないようにと。何かをする事によって、神に、人に認められよう、受け入れられようとする事は、恵みではない。

 

それはキリストから離れ、恵みから落ちてしまっていると。信仰生活は、神に受け入れてもらうための苦しい修業でない。すでに神に受け入れられ、完全な愛を受けているゆえに、喜んで、感謝して自由に神に従って行くものだ。

 

「ねばならない」義務ではなく、「愛によって働く信仰」の愛が動機であり、自発的な自由意志で主に応答し、従って行くものだ。そこには苦しみでなく、喜びと平安がある。主を愛する愛がある。

 

----------ねばならないと努力する事が救いの条件でなく、もう赦され救われたのだから、努力も頑張りも主に褒めてもらうためにしたい。失敗すれば主に悔い改め、いつも主に顔を向け歩んでいたい。