「何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重 に番をするように命じた」使徒16:23

パウロは、御霊の明確な示しにより、マケドニヤに渡り、宣教のためにピリピの町へやって来た。そして、川岸の祈り場へ行き祈った。それから宣教を開始し、悪霊を追い出したのだが、訴えられて捕らえられてしまった。そして投獄となった。むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁されてしまった。

 

祈ったのに、何でこんな事に? 御霊の示しに従い、導きに確信もって従ったのに、どうして? 御心を行なっているのに、問題が来て、苦しみがやって来た。なぜ? どうして? ましてや、宣教のために来たのに、投獄の身だ。あの祈りはどうなったのか? 投獄されてしまって、身動きもとれない。これでは、どうしようもないではないか。しかし、神の計画は着々と前進していた。

 

パウロとシラスは、これらすべてに神の主権とご計画を信じ、牢獄の中で祈りをし、賛美した。愚痴と不満では無かった。何度もむち打たれた激痛の中でで、賛美した。結果的に、その投獄によって、看守が救われた。そして、何と看守の全家族も救われたのだ。ピリピの教会の核となり、宣教がなされて行った。

 

神に間違いは無い。一つ一つの事柄が、パズルのピースだ。つながった時に、神のみわざが見えて来る。あんなに祈ったのに、御心に従ったのに、どうしてこんな事に?との状況にあるだろうか。神はご自身のご計画を着々と進めておられる。紆余曲折により、神のみ思いの通りに、みわざが進行中だ。神に間違いはない。思い煩いと不安、恐れを「すべてのことについて感謝しなさい」の感謝に変えよう。

 

・・・・・・・・・・「なぜ?どうして?」との事態が目の前に起きる。わけがわからない。祈ったのに、従ったのに。当座はわからないが、思いを越えたみわざへと発展して行く。必ず、災いではなく、平安の計画へと着地して行く。それゆえ全主権者なる主を見上げ、感謝を献げて行こう。