「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して は、イエスはこのようなことを話されて」ルカ18:9

パリサイ人は、自分は正しい者である事を感謝しますと祈ったが、他人事とは思えない。人は、誰しも自分は正しいと思っている。皆が、自分は正しいと思っているので、争いになる。親子喧嘩、夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、友人間のもめ事、職場、近隣の様々な対人関係・・その根は、自分は正しく、相手が間違っていると思うので、争いになる。

 

パリサイ人は、自分の立派な行いを並べ立てて、誇った。表向きは、立派な行いをしても、心の内側、その動機はどうだろう。何のためだろう。自己顕示、自己満足、自己実現・・だろうか。御霊の助けなくして、誰も御心にかなった行いはできない。パリサイ人の義は、他者との比較に立っていた。私たちも、他者との比較の中に生きる時、人より自分の方が正しいと思う。相手が間違っていると。そして自分の間違いは全く見えない。

 

この状態から救われるためには、人との比較でなく、横ではなく、絶えず上を仰ぎ、主を見ていよう。御心を求めよう。そして御言葉を鏡として、自分の姿を見て行くことだ。主は、御言葉を通して語られる。御言葉により、自らの姿が照らし出される。自分で自分の本当の姿は決してわからない。御言葉の鏡が照らし出してくれる。

 

その時、間違いを示されたなら、悔い改め、示されたことに従って行こう。取税人は「こんな罪人の私をあわれんで下さい」と、自らの罪を認めて、主にあわれみを求めた。彼は、罪赦され、義と認められて帰った。

 

・・・・・・・・・・パリサイ人は罪を持ったまま帰り、取税人は罪赦されて帰った。御霊に罪を示される時には、人など全く関係無くなる。目に入らない。ただ自分の罪だけが見える。その罪は赦される。御霊により罪が指し示される事は何と感謝な事だろう。悔い改めて〃歩もう。