「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか』」ヨハネ5:6

私たちは、悪習慣を環境のせいにしたいものだ。アルコール依存症の人は、どこに行っても、飲酒の誘惑の無い所がないと言う。テレビからは酒のCM、街を歩けば、店、又、店、誘惑があるから止められないと。ギャンブル依存症の人も、ギャンブルが存在する事が悪いと言う。環境が悪いと。しかし、同じ環境にいて、アルコール依存症にもギャンブル依存症にもならない人々が大勢いる。

 

これは環境のせいでは無いという事だ。問題は何なのか。私たちも形は違うが、同様だ。やめられない習慣を持っている。しかし、その問題の底にあるものは、やめられないのでなく、やめたくない自分がいる。そこを認めない限り、問題の解決はない。人一倍思い煩いの強い人もいるが、実は思い煩っていたい。

 

思い煩いがないと不安で、思い煩いを見つけ出すと安心する。思い煩い依存だ。おかしな話だが、心の底を正直に見るとそうなのだ。主はいつでも「よくなりたいか」と問うて下さる。そう出来るかとは問われない。「・・たいか」だ。本当に良くなりたいのだろうか。 建前でなく本音はどうだろう。どっちでもいいのだろうか。

 

悪習慣の中は、心地良かったりする。環境や人のせいにせず、自らの罪を認め、無力を認める時、主は癒やしを与えて下さる。「私はアルコール依存です」と認める人が癒やされて行くという。逃げないで、主に向き合おう。

 

--------------一人ではよくなれない状態も、またその苦しみも主はご存じでよくなりたいかと聞いてくださっている。よくなりたいとの決心を主に告げることから始めよう。