「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。 神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17

主が私たちを用いられるために、砕きを通される。聖書の様々な箇所で学ぶ事ができる。ヤコブの息子ヨセフもそうだった。12人の息子の中で、特別に可愛がられた。えこひいきだ。そのため、他の兄弟たちはひどく妬み、ヨセフを憎んだが、殺害は思いとどまり、奴隷として商人に売り飛ばした。

 

家族から離され、誰も知った人のいない異国の地へ。しかし、主はそこでヨセフを砕かれ、練られ、訓練され、整えて行かれた。奴隷から囚人に、さらに波瀾万丈を経て、総理大臣にと立てられ、結果的にヤコブ一族の命を救う事になった。紆余曲折の中でヨセフは砕かれた。

 

モーセも王子として育ち、あらゆる学問を学び、文武両道、地位、名誉、富、人脈、何もかもを持っていた。自分の力に満ちていた。そのモーセは逃亡の末、荒野で羊飼いとなり、40年の歳月を過ごした。モーセは砕かれた。そんなモーセを主は大きな働きのために用いられた。

 

主は必ず器を砕き、へりくだらされ、身を低くさせられる。間に合う器に整え、用いられる。 しかしその時、自由意志を妨げられる事はない。強いられない。もし従うならそのようにされ、拒むならされない。主の恵みの砕きがありながら、心を固くし、頑なになり受け入れない事もできる。その時、ますます心は固くなってしまう。様々な痛い事態は、砕きと受け止めよう。必ず一歩一歩成長を遂げて行く。

 

-------------主は長い時をかけて成長させてくださる。感情はまっ先に避けて通れと言うが、御言葉を思い起こす時、問題は自分のためと受けとり直せる。一歩一歩目の前の事に主を見て歩もう。