「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。 それで、そこはマラと呼ばれた」出エジプト15:23

苦難のエジプトを脱出したモーセと民は、荒野を3日歩き続けた。炎天下で水が無かった。民はのどがカラカラで死にそうだった。そんな人々の心は、大歓喜から一転、失望落胆、嘆きに変わった。その時マラで水を見つけた。歓喜に湧いたが、しかしその水は苦くて飲めなかった。それで「マラ」=「苦いもの」と言った。

 

人々は落胆して、不満を、怒りをモーセにぶつけた。あの3日前の、主への大きな感謝は見事に吹っ飛んでしまっていた。手の平を返すがごとくだ。そこでモーセがした事は、まず神に向かう事だった。民への対応でなく、まず神に叫び祈った。すると一本の木を示され、それを投げ入れるや、苦い水が、何と甘くなった。

 

私たちも日常で、何か起きると、不安、思い煩い、恐れ、又不満、怒りに襲われる。それが苦い水となって、心の中に苦みが渦巻き、溜まって行く。主が一本の木を備えられたが、それは私たちにも備えられた主の十字架だ。苦い水を、人がどうやっても、甘くはできない。心の苦みはどうにも出来ない。

 

十字架が、その苦みを甘みに変えてくれる。人への怒り、憎しみ、赦せない思い、そんな苦みが、十字架の愛、赦しの下でのみ、甘みへと変えられる。今、不満や怒りのマラにいるだろうか。主の十字架が解決だ。十字架から赦し、癒やしが流れて来る。苦みが、甘みに変えられる。十字架をじっと見つめて祈ろう。

 

・・・・・・・・・・・理不尽、恨み、怒りが、じっと主の十字架のもとにいる時に、心が変えられる。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と。又、嘆き、思い煩い、不安、恐れも、主の十字架じっと見る時、平安へと変えられて行く。