「どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう・・うるさくてしかたがない」 ルカ18:5

この人は裁判官だが、神を恐れず、人を人とも思わない人物だ。しかし、裁判官であるという事は法律に乗っ取って裁くという事だ。人格的には、人を人とも思わないような人だが、やもめが余りにうるさいので、これ以上対応が面倒なので、裁判をする事にした。

 

ここでは、こんな人でも、やもめがうるさいからの理由で、裁判をするのであれば、ましてや完全な愛と完全な義を持つ神が、正しい裁きをされずに、いるわけがないと言っている。こんな人格的に問題のある裁判官でもそうするのだから、対比して「ましてや神は」という事を言っている。

 

完全な愛により、常に私たちの最善を考えて下さっている神なのだから、失望は決してあり得ないと。祈りの執拗さ以前に、祈る相手がどんなお方かが肝心で重要だ。神はすみやかに正しいさばきをして下さる。「パンを三つ貸してくれ」としつこく頼み続けて、パンを得た人も、友達だから愛情のゆえにくれたのでなく、執拗さのゆえに勝ち取った。

 

ここでも、重要なのは、だが神はそうではないという事だ。うるさいからでなく、子だから良いものを下さると言っている。だからこそ神に、失望する事なく信頼し続ける事ができる。ガンガン祈るからではなく、極みまで愛し、必要をご存じで、祈りに答えようと待ち構えていて下さる主。その主に信頼して祈れるとは、何と私たちは幸いだろう。

 

-------------ヤコブのように格闘する祈りもあれば、失望へ向かいそうな心や迷う時、恐れが来た瞬間など一瞬一瞬に祈る祈りもある。しつこいほどに絶え間なく祈っているだろうか。