「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともに います」マタイ28:20

ある婦人の証しだ。クリスマス会を婦人たちの家を持ち回りで行っていた。彼女の家はどうかとの打診を受けた時、とっさに「その日は仕事!準備ができない」と答えてしまった。しかし「神様ごめんなさい」だった。実は、家の片づけ掃除、準備が面倒で回避したかったのだ。とっさに出た言い逃れだった。

 

やがて当日、仕事が入って、それも大変忙しく残業だった。ああクリスマス会の日に、残業だなんて。みんないいなあ、楽しくやっているんだろうなと、さえない思いで一杯だった。そんな時、ふと突然、「あ!神様だ!」と感じた。主は、自分が言った事が嘘にならないように、その日仕事にして下さったのだ。主のあわれみだと。

 

するとその瞬間まで、沈んでいた心が、あったかくされ、主と共に温もりの中で、残りの仕事ができた。全く心が変えられた。何をしているかではなく、共におられる主、それが私たちの喜びだ。喜びはそこから来る。何をしているかは問題ではない。小さな単調な仕事であれ、多くの人々に影響を与える大きな仕事であれ、主が共におられるかどうかだ。

 

毎日同じ事の繰り返しの平凡な日々、しかしそこに主が共におられる。それを意識する時に、単調な日々に御霊の喜びが来る。又、厳しいつらい試練の時、主が共におられるとは、何と慰めであり、支えだろう。それが救いとなる。主が共におられるのであれば、恐れるものはない。今も主が共におられる。意識して今日も歩もう。

 

----------自分という限定された世界でいつも思い煩ってしまうが、主と共に今を見ていよう。主はいつも想定外の励まし、喜び、希望、慰めをもって今日を支配してくださる。心配することは何もない。