「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、 ことにこの取税人のようではないことを、感謝します・・』」 ルカ18:11

パリサイ人は、外側の行いにより、自分は戒めを落ち度なく守っている正しい人間だと言った。不正、姦淫、盗みもしていない、断食を守り、十一を献げていると。自分は立派な人間だと。だが主の基準は全く異なり、内側を問題とされた。外側、姦淫はしていなくとも、「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した」と。心の中の事を言われた。

 

又、殺人は犯してはいないが、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」と。心の中で憎むなら、その相手を殺した事になると。相手がいなくなればよいと思う事は、相手を抹殺している事だと。又、クリスチャンなら、実際の偶像は誰も拝まない。しかし目に見えない偶像はどうだろう。生活を保障し、幸せをくれると、富に依存し、人に依存し、自力に頼る。

 

又、地位、賞賛を求める・・それらは偶像礼拝だ。パウロは、自分は正しいと思っていたが、目が開かれた時に「私は罪人のかしら」と言い、ペテロも目が開かれた時に「私は、罪深い人間」と言った。自らを罪人と認める時に、主は「いや、あなたは正しい」と、義の衣でおおって下さる。

 

又「この取税人のようではない・・」、相手を見下して、裁いている。裁きがある時、自分が見えず、相手も見えない。心に裁きがある時、愛はない。絶えず自らの状態を、御霊の光に照らして頂こう。御心にかなった道筋へと、導いて下さる。

 

-----------自分中心でしか見られない者だということを絶えず思い起こしたい。自分の内を見るなら「自分は正しい」という立場に立てる要素がどこかにあるだろうか。罪からの守りも赦しもただ主から来る。祈って行こう。