「私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」詩編32:5

ダビデは姦淫と殺人の重罪を犯した。が、自分は王でありトップだ、誰も何も言う者はいない。罪を隠し通して、口をぬぐっていた。外側はそれで済んだが、ダビデの内側は惨憺たるものだった。一日中うめき、骨々疲れ果て、御手がのしかかり、骨髄は夏のひでりでかわききった。平安の全く無い苦悶の中にいた。どんなに苦しかったろう。

 

神は預言者ナタンを遣わされ、その罪を指摘、ダビデは主の御前に罪を悔い改めた。この時、ダビデはバテシバのせいにせず、何の言い訳もせず、責任転嫁せず、自らの罪を真っ直ぐに認めた。プライドもあったろう。王の地位にありながら、悔い改めた事は、ダビデの素晴らしいところであった。罪は赦され、ダビデに全き平安が戻った。

 

「大水の濁流も、彼のところに届きません。あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます」との喜びが満ちた。罪の解決とは、悔い改めのみだ。幾ら自分で忘れよう、無かった事にしよう、考えるまいとしても、その苦しみ、うめきはどうにもならない。「私のそむきの罪を主に告白しよう」その時、罪はおおわれ、完全に赦された。

 

私たちもプライドがあり、自我があり、素直に罪を認められない。認めたくない。しかし、言い訳し、自己正当化している間は、主は働けない。砕かれた、悔いた心が神の喜ばれる、一番の献げものだ。

 

・・・・・・・・・・・アダムとエバは罪が示された時、責任転嫁したが、ダビデは指摘された時に、自らの罪を認めた。すると、即、罪の赦しが宣言された。幾らでも言い訳は出て来るし、自己正当化したい。しかし自分を砕いて罪を認める時、主との関係が回復され、平安におおわれる。