「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10

私たちが切に望むのは、平穏無事、問題が無い事、順風満帆な日々だろうか。世の宗教が言う、家内安全、商売繁盛、無病息災、五穀豊穣だろうか。生涯が無事でありたい。いつも安全な所に身を置いていたい。コントロールが効かないと不安で仕方がない。

 

だが一生涯、いっさい問題は無く、無事平穏であれば、神を求める事は決して無いのではないか。順風の時は神無しで生きる。自分の力で生きられるので、神が必要無い。自分にはどうにも出来ない、絶体絶命の窮地で、初めて人は神を求める。私たちの信仰の成長も同様だ。何の問題も無いところで、安穏としていて、決して信仰の成長は無い。

 

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意・・これらの実はいつ結ぶのだろう。愛はどうだろう。漠然と、抽象的になら、全世界を愛せる。ところが目の前に、どうしても愛せない人が置かれて初めて、愛せない自分を知り、悩み苦しみ、自分の限界を認め、主に明け渡した時に、御霊の愛が与えられる。全く喜べない環境、感謝などとてもできない状況に置かれて初めて、主の取り扱いにより、御霊の喜びを知る。

 

平安が全く持てない境遇を通らされて、真の平安を知る。寛容になれない状況、全く寛容のかけらすら無い自分に向き合い、主によって寛容な者と変えられる。一つ一つの出来事を通り、醜い真の自分を知り、主の品性へと変えられて行く。窮地に陥り、御霊の実が与えられて行く。試練は望まないが、感謝だ。

 

--------------神は、時に追い立てるようにして信仰を使うよう試練を送られる。その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われること、それらを通し変えられていく。それは自分では決して出来ないことだ。