「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3

あなたも経験あるだろうか。信仰生活の中で、嫌な相手と出くわす。近所、職場、学校、親戚であったり様々だ。顔を合わせたくなくて、どうにかして避けようとする。環境を変えたくなる。どうしても嫌で、職場を変えたり、引っ越したりするだろうか。

 

しかし、その移った先で、又、同じような相手に出会う。又、職場を変えても、同じ事が起こる。どこへ行っても嫌な相手がいる。同じ事を繰り返し、やっと相手でなく、環境でなく、これってもしかして自分の問題では、と気づく。自分の問題だと気づけた時、光があり、神に焦点が合った事になる。

 

状況は同じなのに、深い安堵感に包まれる。「羊のようにさまよっていたが、自分のたましいの牧者のもとに帰った」感覚だ。平安になる。自分と状況しか見えていなかった目が、神を見ている。そうであれば、主は必ず目の前の事態を導かれる。真の問題は自分のプライドだろうか。

 

虚栄心や、高慢だろうか。 主がそこを砕こうとしておられると見えると、不思議だが平安になる。そこに主を認める時、本当の問題が見える。へりくだる事を教えておられるだろうか。ある人が、嫌な事があるとすぐ仕事を辞め、バイト先を転々としていたが、主を知った時に、やんだ。一つ所で、様々な主の訓練を、学びを受け止め、自分が変えられて行く喜びを知った。

 

----------------相手の問題は、相手が自分に対して謙遜になれば解決するのだろうか。何事でもへりくだってとの御言葉の通り、まず自分自身が変わろう。主が必ず変えてくださる。